天才画家に描かれて、毎晩とろけそうです ―スイートルームで始まる、芸術と恋の独占契約
六本木の街は、朝から騒がしかった。

地下鉄の改札を抜けた瞬間、咲良はポスターを見た。

駅の柱にも、壁にも、同じポスターが何枚も貼られている。

今日が、その個展の初日だった。

咲良は招待客として、美術館の入り口でスタッフに名前を告げると、後方の観客席へと案内された。

高い天井、白い壁。ガラス張りの外に広がる街並みも、まるでひとつの作品のように見える。咲良は心を落ち着けようと深呼吸した。

(大丈夫。私は、ただ見守るだけ……)

やがて会場が暗くなり、開会のアナウンスが響いた。

静寂の中に、レオンの足音が響く。登壇したレオンは、黒のタキシードを身にまとっていた。髪はいつもより丁寧にセットされ、光を受けてゆるく波打っている。

壇上のマイクに向かい、彼はゆっくりと口を開いた。

「本日は、お忙しい中お越しくださり、ありがとうございます。私は、この国で初めての個展を迎えることができました」

その声は、低く穏やかで、しかし一言一言が観客の心を掴んで離さなかった。

「僕の絵は、誰かの心に触れるために存在します。孤独のなかで育った僕が、絵を描くことでようやく『誰か』とつながれることを知った。……今日、この日を迎えることができたのは、その『誰か』に出会えたからです」

ざわ……と会場がざわめいた。

ひとりの記者が手を挙げた。

「質問です。今回の目玉作品『彩光の肖像』──あの女性を描いた理由を教えてください。モデルは、どなたですか?」

場内に張り詰めたような静けさが満ちた。

その言葉が投げかけられた瞬間、咲良の心臓が跳ねた。

(……やめて)

一瞬、本気でそう思った。
身体がこわばる。

壇上のレオンは、しかし、どこか穏やかな微笑みをたたえていた。
そして、まっすぐな声で言った。

「彼女の名前は、咲良です。僕の──ミューズです」

一瞬、世界が静止した。

そして次の瞬間、
パッ、と閃光が弾けるように、フラッシュの嵐が咲き乱れた。

どよめき。記者たちのざわめき。会場中を駆け抜ける衝撃の波。

咲良は席から動けなかった。
胸の奥がきゅうっと縮こまり、息ができない。
目の前が、にじんでいた。

(……いま、ほんとうに……)

──私の名前を、言ったんだ。

そのとき。
壇上のレオンが、真っすぐに咲良を見た。

まるで、そこに何百人もの人がいることを忘れてしまったように。
彼だけの世界に、咲良を迎えるように。

「咲良。来て」

彼の口元が、そう動いた。
声は届かないはずなのに──たしかに聞こえた。
レオンの声だけが、咲良の心に、そっと届いていた。

足が震えた。喉も渇いていた。
立ち上がるだけのことが、こんなにも難しいなんて思わなかった。

けれど。

(レオンのとなりに、立ちたい)

その気持ちだけが、咲良の背中を押した。

咲良はそっと立ち上がった。
スポットライトの光が、まっすぐに彼女を照らした。
一歩、また一歩と、壇上へと歩いていく。

観客席の誰かが、ぽつりと呟いた。

「……まるで、絵のなかから抜け出してきたみたいだ」

レオンの描いた『彩光の肖像』が現実となって、今ここに息づいている。

壇上に立った咲良の手を、レオンがやさしく取った。

ふたりの掌が触れ合ったとき──咲良の不安が、少しだけほどけた。

「ありがとう、咲良」
「君の存在が、僕をここまで連れてきてくれたんだ」

咲良は小さく息を吸って、涙をこらえた。

「……私のこと、隠さなかったんだね」

レオンは、そっと首を横に振った。
その瞳には、嘘も迷いもなかった。

「隠す理由なんて、どこにもない。君は、僕の誇りだ」

その一言が、胸の奥深くに届いて、咲良の心を静かに満たしていった。

──もう、迷わない。

今ここに立っていることも。
彼に見つめられていることも。
レオンとともにある、すべての日々を。

大きな拍手が、会場を包んだ。

フラッシュの嵐のなか。
世界の目がふたりに注がれていることを、咲良ははじめて、誇らしいと思えた。

──堂々と、レオンの隣に立てる。

それが、なによりの贈りものだった。
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