天才画家に描かれて、毎晩とろけそうです ―スイートルームで始まる、芸術と恋の独占契約

第10話 フェリーの上で

「ねぇ、咲良。明日の夜、空けておいてくれる?」

レオンの声が、夕方のキッチンに溶け込んで響いた。 湯気の立つ鍋のふたを開けながら、咲良はちらりと横目で見る。

「……なにか予定?」

「うん。ふたりで行きたい場所があるんだ」

いつもより少しだけ低く、真面目な声色。 レオンは咲良の問いに、それだけを返して笑った。

*

翌日の夜、ふたりは港にいた。 空には薄く雲がかかり、街灯の光が水面を静かに揺らしている。

フェリーの乗船口に立ったまま、咲良は目を見張った。

「……これ、貸切?」

「うん。咲良のために、今夜だけ」

まるで冗談みたいな言葉を、レオンは真顔で言った。 肩を並べて甲板に立つと、船はゆっくりと岸を離れていく。 足元から伝わる微かな振動。風が、髪を梳かしていった。

言葉はなかった。 けれど、隣にいる彼の指先が、そっと咲良の手を包む。

あたたかい。 ただ、それだけが胸の奥に届いた。

船の先端に立ち、ふたりは並んで夜の海を見つめる。 遠ざかる街の灯。水面に浮かぶ光の粒。

レオンは咲良の肩にそっとジャケットをかけた。 彼の手が、ためらいがちに咲良の背中に触れる。

「寒くない?」

咲良は小さく首を振った。 その手が、離れないようにと願ってしまった自分に気づき、うつむく。


夜の海風は、やわらかく肌を撫でた。

フェリーのデッキに立つふたりの間には、しばし言葉がなかった。

レオンは咲良の隣に立ち、静かに海を見つめている。

ライトアップされた東京湾岸の夜景が、遠くに浮かんでいた。レインボーブリッジ、観覧車、煌めく摩天楼の光。

それらすべてが、今日という一夜を祝福しているかのように見えた。

咲良は少しだけ緊張した面持ちで、足元に視線を落としていた。貸切のフェリーだと知ったときは驚いた。

だが今、こうしてレオンの隣に立っていると、不思議と静けさが心を満たしていく。

風が、そっとレオンの金髪を揺らす。

彼がゆっくりと振り返った。

そして──跪いた。

「……咲良」

その名を呼ぶ声は、深い湖の底から響くような、優しくて重みのある響きだった。

咲良は息を呑み、瞬きを忘れたまま、彼を見下ろした。

レオンの手には、ベルベット張りの小さな黒い箱。

そっと開かれると、そこに現れたのは──
淡い桜色の光を宿した、大粒のピンクダイヤモンドの指輪だった。

灯りの下で、それは夢の粒のようにきらめいた。
まるで、春風の記憶を閉じ込めた宝石。

咲良の胸が、きゅうっと締めつけられる。

言葉もないまま、ただ、その美しさに見惚れていた。

そのとき、レオンが静かに口を開いた。

「君は、僕の生涯のミューズだ」

その声は、まっすぐに咲良の心の奥まで届いた。

「一生かけて、君を描く。
君のすべてを、絵に、音に、言葉に……僕の生きるすべてに刻みたい」

咲良の瞳が、ふるえる。

「……そんな……まだ……早いんじゃ」

震える声でそう言ったのは、驚きと戸惑いのせいだった。

でも──それ以上に、胸の奥が、どうしようもなく嬉しかった。

レオンはふっと微笑んだ。

「早くなんてないよ」
「僕は、ずっとこの日を夢に見てきた。
咲良と、一緒に未来を描く日を──永遠を誓う日を」

咲良がそっと視線を落とすと、彼の瞳がまっすぐに自分を映していた。

まるで、世界でいちばん純粋な色のキャンバスのように、澄みきっていて。

心が、少しずつ、やわらかくほどけていく。

レオンはそのまま、箱の中の指輪をそっと持ち上げた。

「これは、ピンクダイヤ。咲良の名前と、同じ『桜』の色。春に咲く桜のように、柔らかく、あたたかく、美しい君にぴったりだと思って」

咲良の瞳が大きく見開かれた。

「……わたし、生まれたときに、満開の桜が咲いてたんだって。だから──よく咲くようにって、『咲良』って名付けられたの」

思いがけず涙がにじみそうになって、咲良は指先でそっと目元をぬぐった。

「……全部、合ってるよ。レオン」

そして、笑った。

「ありがとう」

その笑顔に、レオンはそっと囁いた。

「咲良。僕と結婚してください」

ふたりの間に、音のない春風が吹き抜けた。

世界が静かに止まるような、甘く張りつめた沈黙。

咲良は、ゆっくりと右手を差し出した。

「おばあさんになっても──モデルでいさせて」

笑いながら、泣きながら、そう言った。

「もちろん」

レオンはその指に、そっと指輪をはめた。

ぴたりと吸い付くように馴染んだリングが、灯りの中で淡く輝いた。

──それは、ふたりの永遠の約束。

そして、ふたりは、世界でいちばん甘く、熱いキスを交わした。
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