天才画家に描かれて、毎晩とろけそうです ―スイートルームで始まる、芸術と恋の独占契約

第10話 フェリーの上で

「ねぇ、咲良。明日の夜、空けておいてくれる?」

レオンの声が、夕方のキッチンに溶け込んで響いた。 湯気の立つ鍋のふたを開けながら、咲良はちらりと横目で見る。

「……なにか予定?」

「うん。ふたりで行きたい場所があるんだ」

いつもより少しだけ低く、真面目な声色。 レオンは咲良の問いに、それだけを返して笑った。



翌日の夜、ふたりは港にいた。 空には薄く雲がかかり、街灯の光が水面を静かに揺らしている。

フェリーの乗船口に立ったまま、咲良は目を見張った。

「……これ、貸切?」

「うん。咲良のために、今夜だけ」

まるで冗談みたいな言葉を、レオンは真顔で言った。 肩を並べて甲板に立つと、船はゆっくりと岸を離れていく。 足元から伝わる微かな振動。風が、髪を梳かしていった。

言葉はなかった。 けれど、隣にいる彼の指先が、そっと咲良の手を包む。

あたたかい。 ただ、それだけが胸の奥に届いた。

船の先端に立ち、ふたりは並んで夜の海を見つめる。 遠ざかる街の灯。水面に浮かぶ光の粒。

レオンは咲良の肩にそっとジャケットをかけた。 彼の手が、ためらいがちに咲良の背中に触れる。

「寒くない?」

咲良は小さく首を振った。 その手が、離れないようにと願ってしまった自分に気づき、うつむく。


夜の海風は、やわらかく肌を撫でた。

フェリーのデッキに立つふたりの間には、しばし言葉がなかった。

レオンは咲良の隣に立ち、静かに海を見つめている。

ライトアップされた東京湾岸の夜景が、遠くに浮かんでいた。レインボーブリッジ、観覧車、煌めく摩天楼の光。

それらすべてが、今日という一夜を祝福しているかのように見えた。

咲良は少しだけ緊張した面持ちで、足元に視線を落としていた。貸切のフェリーだと知ったときは驚いた。

だが今、こうしてレオンの隣に立っていると、不思議と静けさが心を満たしていく。

風が、そっとレオンの金髪を揺らす。

彼がゆっくりと振り返った。

そして──跪いた。

「……咲良」

その名を呼ぶ声は、深い湖の底から響くような、優しくて重みのある響きだった。

咲良は息を呑み、瞬きを忘れたまま、彼を見下ろした。

レオンの手には、ベルベット張りの小さな黒い箱。

そっと開かれると、そこに現れたのは──
淡い桜色の光を宿した、大粒のピンクダイヤモンドの指輪だった。

灯りの下で、それは夢の粒のようにきらめいた。
まるで、春風の記憶を閉じ込めた宝石。

咲良の胸が、きゅうっと締めつけられる。

言葉もないまま、ただ、その美しさに見惚れていた。

そのとき、レオンが静かに口を開いた。

「君は、僕の生涯のミューズだ」

その声は、まっすぐに咲良の心の奥まで届いた。

「一生かけて、君を描く。
君のすべてを、絵に、音に、言葉に……僕の生きるすべてに刻みたい」

咲良の瞳が、ふるえる。

「……そんな……まだ……早いんじゃ」

震える声でそう言ったのは、驚きと戸惑いのせいだった。

でも──それ以上に、胸の奥が、どうしようもなく嬉しかった。

レオンはふっと微笑んだ。

「早くなんてないよ」
「僕は、ずっとこの日を夢に見てきた。
咲良と、一緒に未来を描く日を──永遠を誓う日を」

咲良がそっと視線を落とすと、彼の瞳がまっすぐに自分を映していた。

まるで、世界でいちばん純粋な色のキャンバスのように、澄みきっていて。

心が、少しずつ、やわらかくほどけていく。

レオンはそのまま、箱の中の指輪をそっと持ち上げた。

「これは、ピンクダイヤ。咲良の名前と、同じ『桜』の色。春に咲く桜のように、柔らかく、あたたかく、美しい君にぴったりだと思って」

咲良の瞳が大きく見開かれた。

「……わたし、生まれたときに、満開の桜が咲いてたんだって。だから──よく咲くようにって、『咲良』って名付けられたの」

思いがけず涙がにじみそうになって、咲良は指先でそっと目元をぬぐった。

「……全部、合ってるよ。レオン」

そして、笑った。

「ありがとう」

その笑顔に、レオンはそっと囁いた。

「咲良。僕と結婚してください」

ふたりの間に、音のない春風が吹き抜けた。

世界が静かに止まるような、甘く張りつめた沈黙。

咲良は、ゆっくりと右手を差し出した。

「おばあさんになっても──モデルでいさせて」

笑いながら、泣きながら、そう言った。

「もちろん」

レオンはその指に、そっと指輪をはめた。

ぴたりと吸い付くように馴染んだリングが、灯りの中で淡く輝いた。

──それは、ふたりの永遠の約束。

そして、ふたりは、世界でいちばん甘く、熱いキスを交わした。
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