氷壁エリートの夜の顔
 それでも──私の作った柿ようかんを「美味しい」と言って、また来てくれた。それだけで、十分だった。

 だからその夜、彼が帰り際に「また、来ます」と小さく言ったとき、私はちょっとだけ、来週の仕込みが楽しみになった。

 別に、誰かのためじゃない。常連さんがひとり増えた、ただそれだけのこと。
──うん、それだけのこと。

 そう自分に言い聞かせるたびに、胸の奥で小さなざわめきが生まれる。

 私はそれに気づかないふりをして、黙々と柿の皮を剥いた。
 浮かびそうになる笑みは、唇をきゅっと結んで押し殺す。
 まるで、それで全部、なかったことにするかのように。

* * *

 木曜の夕方、退勤まであと30分。そんなタイミングで、まさかの事態が起きた。

「咲さん……どうしよう、今日が期限のA社の提出用ファイル、古いバージョンで上書きされてます!」

 焦った声で杏奈ちゃんが立ち上がる。モニターを覗き込んだ瞬間、血の気が引いた。
 提出用の最新データが、数日前のテスト段階のもので上書きされていたのだ。

「何があったの……?」
< 34 / 206 >

この作品をシェア

pagetop