上野発、午前零時

第一話 「新聞配送トラックの女」

 昭和61年5月。

 貨物搬入口は、すでに排気ガスと新聞のインクの匂いで満ちていた。
 夜八時を過ぎた上野駅の裏手、不忍口から少し歩いた通り沿い。ふだんは静かな裏道が、この時間だけは活気づく。

 夜八時からは全国紙、そして夜十時過ぎからは、スポーツ新聞の地方配送が始まる。

 トラックが数台並び、貨物の搬入口の天井からハロゲンランプの強い光がトラックの荷台と道路を照らしている。その光の中を、若い男(大学生のバイト)たちが、新聞を積んだトラックの荷台に乗り込み、行き先別のトラックに積み替える。毎晩繰り返される光景だった。

 早川明日香は、二十五歳。スポーツ新聞を地方に配送するトラックの運転手だ。
 この夜も、貨物の搬入口にトラックを横付けし、新聞社のトラックが来るのをじっと待っていた。

 髪は後ろでひとつに束ね、化粧はしない。
 ジーパンに紺の丸首シャツ、その上に色の褪せたスタジャン。
 地味な装いだが、動きやすくて、汚れても気にならない。
 まるで作業着のように、明日香にはなじんでいた。

 新聞社のトラックが横付けされると、その荷台に学生バイトが乗り込み、新聞の束を渡す。
 明日香は、新聞の束を受け取り、荷台に積む。配置は決まっている。配達先ごとに降ろしやすいように並べるのが肝心だった。明日香は黙々と、それを繰り返していた。

 声をかけてくる学生バイトはいない。年齢は近くても、明日香は明らかに"別の場所"にいる人間だった。三年ここで働いているが、作業中も、休憩時間にも会話を交わしたことは、ほとんどなかった。

 だから、あの時の声は、不意打ちのように耳に届いた。

「缶コーヒー、買ってきましょうか」

 明日香は声のする方向を見下ろした。第一陣最後のトラックから降りた学生が、自分を見上げて話しかけている。
 夜の力仕事をするバイトにしては、華奢な体つきで、幼さが残る中性的な顔立ちをしている。

「じゃあ、お願い。君の分も買っていいよ」

 ポケットから百円玉を二枚出すと、彼は嬉しそうに受け取った。

「ご馳走様。明日香さん、いつものダイドーでいい?」

  明日香は小さくうなずく。

――別にこだわりはないけど……私がいつもダイドーなの見てたのね。

 彼は道路の反対側にある自動販売機まで小走りで行き、缶コーヒーを二本手に戻ってきた。

 二人は荷台の隅に並んで腰を下ろした。

「去年は、阪神が優勝したけど、ここまで、あまり調子よくないみたいですね」

「君、阪神ファンなの?」

「いや、オーダー変わってないのに、どうしてかなって」

「逆じゃない。投手陣、補強しなかったせいかも。他のチームは、しっかり補強してるし」

「詳しいんですね」

「スポーツ新聞、運んでるだけじゃないからね」

 二人の間に、くすっと小さな笑いがこぼれた。いつもと同じ夜の現場が、ほんの少しだけ違って見えた。

 そのとき、第二陣のトラックの影が通りの先に見えた。
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