上野発、午前零時
第二話 「雨のドライブ」
二人が仕事の合間に言葉を交わすようになって数日後。
直樹が新聞の束を渡した、その瞬間だった。
「……っ」
明日香が短く息を飲んだ。
「ちょっと待って……指、やっちゃったかも」
声を飲み込む。右手の中指に鈍い痛み。
深呼吸して、指を見た。赤く腫れていた。軽い突き指。骨は折れていない。
「大丈夫ですか?」
直樹が心配そうにのぞき込む。明日香はこくりと頷いた。
「平気。ちょっと変に掴んだだけ」
笑って見せたが、指の感覚は確かにおかしかった。片手だけで作業を続けるのは、時間がかかる。
最後の束を積み終え、右手をかばいながら荷台にシートカバーをかける。
トラックに乗り込もうとしたとき、直樹がぽつりと言った。
「俺、明日、大学の講義ないんだ。……一緒に行って、積み下ろし手伝うよ」
思わず彼の顔を見た。
「助手席、狭いよ。荷物も積んでるし」
「平気。缶コーヒーと新聞と寝不足には慣れてる」
その言葉が妙に可笑しくて、明日香は小さく吹き出した。
明日香は肩をすくめてトラックに乗り込んだ。直樹も黙って助手席に座る。
◇◇
雨が降り出したのは、高速に乗ってしばらく経った頃だった。
フロントガラスを叩く細かい雨粒に、ワイパーがリズムを刻む。ラジオは切ってある。車内には、エンジン音とワイパーの動き、それともうひとつ、隣から聞こえる静かな寝息。
直樹は、助手席に体を預けるようにして眠っていた。
無理もない。夜を通して働いて、講義に出て、それからすぐにまたバイト――目の下にはうっすらとクマが浮かんでいた。
視界の先、雨の街灯が滲んで揺れている。静かで、長い夜だった。
「……なんで、この仕事してるんですか」
ふいに直樹が目を覚まして、低く問いかけた。
明日香は、ハンドルを握ったまま、フロントガラスの先を見つめ続けた。
「高校出てすぐ、働くことにした。うち、そんなに裕福じゃないから」
「大学とか、行こうと思わなかった?」
「兄がね。奨学金借りて、行った。でも、私は向いてないって思ったし……早く免許取って、稼いだ方が楽だって思ってた」
話している自分が、少し不思議だった。誰かに家庭の事情を話すのは、何年ぶりだろう。美談にしたくもないし、同情してほしいとも思っていない。ただ、隣にいるこの青年には、なぜか言葉が出ていった。
直樹は、何も言わずに聞いていた。
ワイパーの音が、会話の余白を埋めていく。高速の照明が、雨に濡れたガラスをかすかに金色に染めていた。
◇◇
最初の停車地は、宇都宮市の新聞配送センターだった。夜明け前の空気は冷たく、空はまだ薄暗い。
シャッターの前にトラックを止めると、警備員が手を挙げて出迎えた。
その後ろから出てきた中年の作業員が、トラックの運転席を見上げて目を丸くする。
「おっ、今日は助手つきかい?」
明日香がドアを開けて降りながら、苦笑する。
「ちょっと手、やっちゃって。荷物だけ運んでもらってる」
「いいねぇ、若い衆に運ばせて、今日はお姫様かな」
冗談めかして言う作業員に、直樹は思わず軽く頭を下げた。
彼の手には、すでに新聞の束がひとつ載った台車がある。明日香に教わった通りの順番で並べていた。
降ろす新聞の束はどれも重く、ずしりと身体にこたえる。直樹は手のひらの感覚を確かめながら、小声でつぶやいた。
――これ、毎日か……
明日香は片手をかばいながら、それでも慣れた手つきでチェックシートを確認し、受領印をもらっていた。
二つ目の停車地では、直樹の作業が自然と速くなっていた。明日香が無言で後ろから台車を支え、二人の動きに言葉は少なかったが、呼吸は合いはじめていた。
三つ目の拠点を出る頃、東の空が少しだけ色を変えていた。
◇◇
新聞を積み下ろし、東京に戻る頃には、雨もやみ、空が少しずつ明るみ始めていた。
助手席の直樹は、缶コーヒーを手にして眠気をごまかしていた。
「……で、普段は何してんの?」
ハンドルを握ったまま、明日香がぼそりと聞いた。
突き指の右手をかばいながらシフトレバーを動かす。
「大学、行ってる。早稲田の文学部。演劇専修」
「演劇? 舞台の?」
「うん。劇団もやってて。去年、自分たちで立ち上げたんだ。台本も、ほとんど自分で書いてる」
「へえ。ちゃんと客、来んの?」
「まあ……友達とか、ゼミの先生とか。最近はチケットちゃんと売れてきたけど」
そう言いながら、直樹は少しだけ口元をゆるめた。自信と不安が入り混じった、創る者の顔だった。
「演劇のネタ探しに、ここでバイトしてんの?」
「それもあるけど……金もないしね。ここ、学生のバイトとしては破格だから。
それに、夜なら稽古終わってからでも間に合うし、ちょうどよくて」
明日香は「なるほどね」とつぶやいた。
◇◇
会社の敷地に戻った頃には、朝の光がビルの端に届きはじめていた。
始業前の構内はまだ静かで、構内を歩くのは数人の早番だけだった。
明日香はゆっくりとトラックを所定の場所に停め、エンジンを切った。車内に静寂が戻る。
直樹は軽く背伸びをして、助手席から降りた。
「ふー……なかなか、重労働だったな」
ぼやくように言いながらも、その声にはどこか満足した響きがあった。
「積み下ろし、助かったよ」
短く、けれどはっきりと。明日香は、素直に礼を言った。
直樹は肩をすくめる。
「ちょっと新しい台本の種、見えた気がする」
「……台本って、そんなにすぐ書けるもんなの?」
「書けるときは、一晩で骨組みまでいける。今日みたいな夜があると、特にね」
言いながら、直樹はトラックのドアを開けて降りた。
「じゃあ、また現場で」
「うん」
明日香はそう返し、助手席のドアを閉め、静かにひと呼吸ついた。
明日香は、振り返らず歩いていく直樹の背中を追った。
直樹が新聞の束を渡した、その瞬間だった。
「……っ」
明日香が短く息を飲んだ。
「ちょっと待って……指、やっちゃったかも」
声を飲み込む。右手の中指に鈍い痛み。
深呼吸して、指を見た。赤く腫れていた。軽い突き指。骨は折れていない。
「大丈夫ですか?」
直樹が心配そうにのぞき込む。明日香はこくりと頷いた。
「平気。ちょっと変に掴んだだけ」
笑って見せたが、指の感覚は確かにおかしかった。片手だけで作業を続けるのは、時間がかかる。
最後の束を積み終え、右手をかばいながら荷台にシートカバーをかける。
トラックに乗り込もうとしたとき、直樹がぽつりと言った。
「俺、明日、大学の講義ないんだ。……一緒に行って、積み下ろし手伝うよ」
思わず彼の顔を見た。
「助手席、狭いよ。荷物も積んでるし」
「平気。缶コーヒーと新聞と寝不足には慣れてる」
その言葉が妙に可笑しくて、明日香は小さく吹き出した。
明日香は肩をすくめてトラックに乗り込んだ。直樹も黙って助手席に座る。
◇◇
雨が降り出したのは、高速に乗ってしばらく経った頃だった。
フロントガラスを叩く細かい雨粒に、ワイパーがリズムを刻む。ラジオは切ってある。車内には、エンジン音とワイパーの動き、それともうひとつ、隣から聞こえる静かな寝息。
直樹は、助手席に体を預けるようにして眠っていた。
無理もない。夜を通して働いて、講義に出て、それからすぐにまたバイト――目の下にはうっすらとクマが浮かんでいた。
視界の先、雨の街灯が滲んで揺れている。静かで、長い夜だった。
「……なんで、この仕事してるんですか」
ふいに直樹が目を覚まして、低く問いかけた。
明日香は、ハンドルを握ったまま、フロントガラスの先を見つめ続けた。
「高校出てすぐ、働くことにした。うち、そんなに裕福じゃないから」
「大学とか、行こうと思わなかった?」
「兄がね。奨学金借りて、行った。でも、私は向いてないって思ったし……早く免許取って、稼いだ方が楽だって思ってた」
話している自分が、少し不思議だった。誰かに家庭の事情を話すのは、何年ぶりだろう。美談にしたくもないし、同情してほしいとも思っていない。ただ、隣にいるこの青年には、なぜか言葉が出ていった。
直樹は、何も言わずに聞いていた。
ワイパーの音が、会話の余白を埋めていく。高速の照明が、雨に濡れたガラスをかすかに金色に染めていた。
◇◇
最初の停車地は、宇都宮市の新聞配送センターだった。夜明け前の空気は冷たく、空はまだ薄暗い。
シャッターの前にトラックを止めると、警備員が手を挙げて出迎えた。
その後ろから出てきた中年の作業員が、トラックの運転席を見上げて目を丸くする。
「おっ、今日は助手つきかい?」
明日香がドアを開けて降りながら、苦笑する。
「ちょっと手、やっちゃって。荷物だけ運んでもらってる」
「いいねぇ、若い衆に運ばせて、今日はお姫様かな」
冗談めかして言う作業員に、直樹は思わず軽く頭を下げた。
彼の手には、すでに新聞の束がひとつ載った台車がある。明日香に教わった通りの順番で並べていた。
降ろす新聞の束はどれも重く、ずしりと身体にこたえる。直樹は手のひらの感覚を確かめながら、小声でつぶやいた。
――これ、毎日か……
明日香は片手をかばいながら、それでも慣れた手つきでチェックシートを確認し、受領印をもらっていた。
二つ目の停車地では、直樹の作業が自然と速くなっていた。明日香が無言で後ろから台車を支え、二人の動きに言葉は少なかったが、呼吸は合いはじめていた。
三つ目の拠点を出る頃、東の空が少しだけ色を変えていた。
◇◇
新聞を積み下ろし、東京に戻る頃には、雨もやみ、空が少しずつ明るみ始めていた。
助手席の直樹は、缶コーヒーを手にして眠気をごまかしていた。
「……で、普段は何してんの?」
ハンドルを握ったまま、明日香がぼそりと聞いた。
突き指の右手をかばいながらシフトレバーを動かす。
「大学、行ってる。早稲田の文学部。演劇専修」
「演劇? 舞台の?」
「うん。劇団もやってて。去年、自分たちで立ち上げたんだ。台本も、ほとんど自分で書いてる」
「へえ。ちゃんと客、来んの?」
「まあ……友達とか、ゼミの先生とか。最近はチケットちゃんと売れてきたけど」
そう言いながら、直樹は少しだけ口元をゆるめた。自信と不安が入り混じった、創る者の顔だった。
「演劇のネタ探しに、ここでバイトしてんの?」
「それもあるけど……金もないしね。ここ、学生のバイトとしては破格だから。
それに、夜なら稽古終わってからでも間に合うし、ちょうどよくて」
明日香は「なるほどね」とつぶやいた。
◇◇
会社の敷地に戻った頃には、朝の光がビルの端に届きはじめていた。
始業前の構内はまだ静かで、構内を歩くのは数人の早番だけだった。
明日香はゆっくりとトラックを所定の場所に停め、エンジンを切った。車内に静寂が戻る。
直樹は軽く背伸びをして、助手席から降りた。
「ふー……なかなか、重労働だったな」
ぼやくように言いながらも、その声にはどこか満足した響きがあった。
「積み下ろし、助かったよ」
短く、けれどはっきりと。明日香は、素直に礼を言った。
直樹は肩をすくめる。
「ちょっと新しい台本の種、見えた気がする」
「……台本って、そんなにすぐ書けるもんなの?」
「書けるときは、一晩で骨組みまでいける。今日みたいな夜があると、特にね」
言いながら、直樹はトラックのドアを開けて降りた。
「じゃあ、また現場で」
「うん」
明日香はそう返し、助手席のドアを閉め、静かにひと呼吸ついた。
明日香は、振り返らず歩いていく直樹の背中を追った。