イケメンIT社長に求婚されました─結婚後が溺愛本番です!─
「……やっぱり、視線、感じるよね?」

印刷機の前でコピーを待ちながら、私は思わず小声でつぶやいた。

誰もが、私を知っていた。
というか、「社長の妻」として知っていた。

すれ違えば小さな会釈。
給湯室に行けば誰かしら話しかけてきて、どこか探るような目線。

(やっぱり、会社に戻るって、こんな感じだったんだ……)

ちょっと、息苦しい。

そんなときだった。

「望月さん」

背後から聞き慣れた低音が、すっと届く。
振り返ると、そこに立っていたのは──

「水野さん……!」

黒縁のメガネ越しに、相変わらず落ち着いた目がこちらを見ていた。

スーツはきちんと身体に合っていて、声も仕草も端正。
私がCorvenにいた頃、直属の「年下の指導係」だった人。

だけど、あの頃からずっと、ひとつも私に対して無礼なところがない人だった。

「……おかえりなさい」

静かな声だった。

それなのに、そのひと言が、やけに胸に沁みる。

「はい。ただいま、です……」

「変わってませんね。少し、やつれたようにも見えましたが──」

「あ、そ、それは、社長に言われると緊張してばっかで……」

言いかけて、私は思わず口を手でふさいだ。

やばい、いま「社長」って……!

けれど水野さんは、ほんの少しだけ目を細めただけだった。

「……そうですね。葉山社長の前では、誰でも緊張します」

「す、すみません、なんか……」

「謝ることではありませんよ。けれど、もし辛くなったら、逃げ道は必要です。忘れないでください」

それはまるで、何も知らない人のような言い方だった。
でも、そのやさしさが、逆に胸をしめつけた。

(……水野さん、やっぱり優しいな)

「望月さんが戻ってきて、嬉しいです。仕事のことは、以前のように遠慮なく頼ってください」

そう言って、水野さんは深く一礼したあと、静かにその場を去っていった。

背筋を伸ばして歩く後ろ姿は、あいかわらず整っていて──
でも、なぜかその背中に、少しだけ影を感じた。

 

──その夜。

「誰かに何か言われた?」

夕食の最中、律がふと尋ねてきた。

「……え?」

「なんとなく。今日は、表情がやわらかかったから」

「……それ、褒めてる?」

「もちろん。君が笑ってると、俺の心臓にいい」

私は思わず苦笑した。

だけど、ひとつだけ心に残っていたのは、水野さんのあの言葉だった。

──逃げ道は必要です。忘れないでください。

律には悪いけど。
あの言葉をくれた人がいたことも、私はきっと、忘れられない。
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