イケメンIT社長に求婚されました─結婚後が溺愛本番です!─
旅館の夕暮れ、廊下をそぞろ歩く男女の浴衣姿が、しっとりとした和の情緒に溶け込んでいた。

葉山律は、いつもよりわずかに乱れた着付けの襟元を引き締めながら歩く。

その隣を歩く水野大輔は、真っ白な浴衣の上に黒の帯を締めた正統派の着こなし。

堂々とした佇まいは旅館の空気とよく似合っていて、すれ違う女性社員たちからひそひそと感嘆の声が上がっていた。

「水野さんって、和装が似合いすぎる……」
「でも社長もかっこよくない?あのちょっと乱れた襟元とか……ずるい……」

耳に届くその声に、律はまったく反応しない。

ただひたすら、落ち着かない様子で何かを探すように廊下を見渡していた。

そのとき。

角を曲がった先から、ぱたりと音がして、ひとりの女性が姿を現した。

陽菜だった。

彼女は薄桃色の浴衣に、濃紺の帯を合わせていた。

裾はやや短めで足首が見え、襟元も少し開いている。

湯上がりの頬は上気し、髪はタオルでふんわりと巻かれている。その艶めいた姿に、廊下の空気が一瞬で静まった。

水野が小さく息をのんだ。

「……来てよかった……」

そんな呟きを律は聞き逃さなかった。

次の瞬間、彼は鋭く陽菜に歩み寄り、腕を掴んだ。

「部屋に直帰しろと言ったはずだ」

声は低く、苛立ちを隠さない。

まわりの社員たちが驚いて目を丸くする中、陽菜は困惑しながらも、不満げに口を開く。

「だって……そんなのひどいよ。みんな楽しそうにしてるのに、私だけ部屋にいろなんて……」

そう言い残して、陽菜は律の手を振りほどき、足早にその場を去っていった。

ふたりきりになった廊下に、沈黙が残った。

「……社長が心配するのも、よく分かります」

静かに言ったのは、水野だった。彼は律の隣に立ち、わずかに笑みを浮かべながら続けた。

「陽菜さんは、あまりにも魅力的ですから。放っておくと、誰かに持っていかれますよ」

「……」

「でも、それを言葉で伝えないと、彼女には伝わらないと思います」

律は黙ったまま、わずかに視線を落とした。

そして、急にくるりと踵を返すと、陽菜の後を追うように走り出した。

その背中を見送りながら、水野はひとり、肩をすくめた。

「僕って、お人好しだなぁ……」

その呟きは誰にも聞かれず、夕暮れの廊下に静かに溶けていった。
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