イケメンIT社長に求婚されました─結婚後が溺愛本番です!─

○ 記念日の裏側 ― 陽菜の午後

 今日は、結婚半年の記念日。
 律には「普通の一日でいい」って言ったけれど、本当は内緒でサプライズをしようと思っていた。
 ちょっといいケーキを予約してある。
 お店の名前は「パティスリー・リュミエール」。
 駅前の人気店で、ふたりで初めてデートした日の帰りに見かけた店だ。

 「律、あのケーキ屋さん、かわいいね」
 あのとき何気なく口にした言葉を、律が覚えてくれていたのが嬉しかった。
 だから、今日のサプライズは絶対に成功させたい。
 私はトートバッグに予約票を入れて、玄関を出た。

 ***

 外は春らしい陽射し。風が頬にやさしい。

 「ケーキ受け取りまでに時間があるから、ちょっとお花でも見ようかな」

 小さく呟いて、歩き出す。
 改札を抜けたとき、ふと目に入ったのは、駅前の書店。
 ショーウィンドウの平積み棚の上に、雑誌がずらりと並んでいる。

 ……ん?

 「葉山律──若きCEOの挑戦」

 視線が吸い寄せられた。

 え? 律、取材受けてたの?
 そんなこと、一言も言ってなかったのに。

 思わず立ち止まり、雑誌を手に取る。
 ページをめくると、そこにはスーツ姿の律がいた。
 家で見せる柔らかい表情とは違って、凛とした目。
 記事のタイトルは「AI時代の恋愛観を変えるアプリ経営者」。

 ──真剣な眼差し。ああ、これが「社長の顔」なんだ。

 文章を読みながら、胸の奥がじんわり熱くなる。
 いつも冗談ばかり言ってるのに、こんな真摯な言葉を語る人なんだ。

 誇らしい。

 気づけば、手は自然にレジへと伸びていた。

 「これ、ください」

 袋に入れてもらった雑誌を抱えながら、なんだか胸がくすぐったい気持ちになる。

 私の夫、かっこいいな。



 書店を出て、駅構内を歩いていると──ふと、巨大なデジタル広告が目に飛び込んできた。

 Velvet。アプリの名前と、律の写真。

 「理想の恋が、ここにある」

 えっ……広告、出してたの!? しかも駅に!?
 信じられない気持ちで立ち止まって見上げると、周りにいた女子高生たちが「やば、葉山社長マジ熱い!」「推し!」って言いながらスマホを向けて写真を撮っていた。

 ……推し? 夫が、推し?
 頭の中で「???」が並ぶ。

 なんだろう、このむずがゆい感情。
 うれしいような、悔しいような。
 私の律が、知らない女の子たちにキャーキャー言われてる。

 うっ。……負けてられない。

 私はバッグからスマホを取り出して、広告の正面に立った。
 角度を調整して、構図を決めて、シャッター。パシャッ。

 うん、いい感じ。背景の光も綺麗。

 「負けないもん」
 思わず小声でつぶやいた。

 隣で広告を撮っていた女子高生二人組が、ちらっとこっちを見てヒソヒソ。

 「ねえ、あの人、何してるの?」
 「たぶん……ファンだよ」
 ち、ちがう! 妻です!! と叫びたいのを必死でこらえる。

 そのまま足早に駅の階段を上り、改札を出た。
 ──よし、次はケーキ。
 スマホの時計を見る。16時半。受け取りは17時。
 間に合う。

 私は胸の中でそうつぶやきながら、雑誌とスマホをぎゅっと抱きしめた。

 律。あなた、本当にすごい人になっちゃったね。
 でも私は、あの広告の中の「社長」じゃなくて、リビングで寝癖をつけたままコーヒーを飲んでる「律」がいちばん好きだよ。

 少し歩いたら、喉が渇いてきた。
 お店の受け取り時間まで、まだ三十分ある。

 「ちょっとだけ、休んでいこうかな」
 そんな気持ちで、駅前のカフェに入った。
 木の香りがする、落ち着いた雰囲気の店。

 午後の光が差し込む窓際の席に腰を下ろし、注文したカフェラテを手にする。

 泡のハートが浮かんでいる。

 「律と来たら、こういうの喜びそう」
 ふっと笑いながら、スマホを取り出す。
 ──電源が落ちていた。

 そうだ。朝から充電してなかった。

 「まあ、いっか」
 どうせあと少しで帰るんだし、律もお休みだからゆっくりしているだろう。

 ぼんやり外を眺めていると、隣のテーブルから声が聞こえた。
 大学生くらいの男の子が三人。ノートパソコンを広げて、真剣な顔で話している。

 「俺、将来、起業したいんだよ」
 「へえ、すごいじゃん! どんな会社?」
 「まだ具体的にはだけど……目標は、Corvenの葉山律。あの人みたいにユーザーの気持ちをちゃんと汲めるアプリを作りたい」

 その名前を聞いた瞬間、心臓がきゅっと鳴った。
 まさか、こんな場所で律の名前を聞くなんて。

 もう一人の学生が笑いながら言う。
 「わかる。あの人って、ただの成功者じゃないよな。SNSの時代に『心』をテーマにしてるの、すごくない?」
 「うん。ああいう人がいるから、俺もがんばろうって思える」

 その会話を聞きながら、私はカップを両手で包みこんだ。
 温かいはずのカフェラテが、少し冷たく感じた。

 律が知らないところで、こんなふうに人の背中を押しているなんて。

 「……すごいね、律」
 思わず、つぶやいてしまった。

 ふたりで暮らしていると、いつのまにか「社長」の顔を忘れてしまう。
 朝、寝ぼけたままコーヒーをこぼす姿とか。
 洗濯物を干すとき、洗濯バサミを色ごとに揃えようとする几帳面さとか。
 私にとっての律は、そういう人。

 でも外の世界では、誰かの夢を動かす「憧れの人」なんだ。

 知らないうちに、彼はこんなにも遠くへ行っていた。

 それが、少しだけ寂しい。
 でも──私の胸の奥にあるのは、やっぱり誇りだった。
 律の隣にいられること。
 あの人の人生の中に「妻」として存在していること。
 それが、どれほど特別なことか。

 気づけば、冷めきったラテを飲み干していた。

 時計を見る。──17時10分。

 「えっ、うそっ!? ケーキ!」
 私、完全に話に聞き入ってた!

 慌ててトートバッグを抱えて立ち上がる。

 レシートをつかんで会計をすませ、カフェを飛び出した。

 「ケーキ、閉店までに間に合うかな……!」

 駅の階段を駆け上がる。
 雑誌がバッグの中でがさがさと揺れる。
 息が切れても、足は止まらなかった。
 律がどんなに遠くへ行っても、私はその手を離さない。
 あなたの隣にいるのは、私。

 世界で一番あなたを見てきた人だって、胸を張って言える。

 ビルの間をすり抜けるように走る。
 夕焼けが空を染め、オレンジの光がまぶしかった。

 「待っててね、律」

 私は、予約したケーキ屋の看板が見えた瞬間、ようやく笑った。

 * * *

 玄関の鍵を回すと、部屋の灯りが漏れた。

 「律、ただいま~! ……って、電話中? ごめんね」

 「陽菜!」

 リビングの奥から、律がすごい勢いで走ってきた。
 驚く間もなく、腕の中に引き寄せられる。
 息が止まるほど、強く、抱きしめられた。

 温かい。帰ってきたんだ、私──律のもとへ。

 「……律、どうしたの?」

 彼の腕の中でそう言うと、律はかすかに震えていた。
 その指先が、背中を確かめるようにゆっくりと動く。

 「ありがとう、帰ってきてくれて」
 「えっ……遅くなってごめんね。スマホの充電切れちゃって」
 「そうだったのか……陽菜が、無事でよかった……」
 「もう、大げさだなぁ」
 思わず笑ってしまった。律らしい。
 心配しすぎるところも、相変わらずだ。

 腕の中から抜け出して、袋の中を探る。

 「実はね、ケーキを予約してたの。開けてみて」

 白い箱をテーブルの上に置く。
 ぱちん、とリボンを外す音。
 ふわりと甘い香りが広がった。

 中には、真っ白なホイップクリームに、艶やかな苺が並んでいる。

 その上に、チョコプレート。
 ──『いつもありがとう。ずっと一緒にいようね』

 「……陽菜」
 その瞬間、律の目に光るものを見た。
 気づいたら、涙が頬を伝っていた。

 「律」
 名前を呼ぶと、彼は笑った。
 あの日、私が彼に惹かれたときと同じ、あのまっすぐな笑顔で。

 「ずっと一緒だ。死ぬまで。いや、死んでからも」
 「あはは、天国でも?」
 「ああ。ずっと監視する」
 「天国でストーカー宣言はやめて」

 笑い声が重なっていく。
 ケーキの甘い香りと、律の体温。
 全部が、今この瞬間を祝福してくれている気がした。

 「ほんと、律って……」
 呆れたように呟きながらも、心の底から思う。
 ──この人と出会えて、よかった。

 ソファに並んで座り、二人でケーキを食べた。

 ショートケーキの苺が、ひとつだけ小さく崩れていた。
 その形さえ、なんだか愛しくて笑ってしまった。

 外では春の夜風が、窓のカーテンをそっと揺らしている。
 世界が静まり返る中で、私は小さく息をついた。

 「……これからも、よろしくね、律」

 彼の指が、私の手を包んだ。その温かさが、心の奥に染みこんでいく。

 こんな日常が、ずっと続いていけばいい。そう願いながら、私は目を閉じた。
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