イケメンIT社長に求婚されました─結婚後が溺愛本番です!─

○葉山夫妻、フランスへ

「……たまには息抜きしようか」


 数週間前、山積みの案件を片付けた葉山律が呟いた、その一言。


 それが、結婚から半年と一か月を迎えた陽菜にとって、人生初のフランス旅行の始まりだった。


 宿泊先はヴァンドーム広場近くの五つ星ホテル。通されたジュニアスイートの窓からは、淡いクリーム色の街並みと、エッフェル塔の先端が覗いていた。


「ほんとにエッフェル塔だ……! 立ってる! すごい!」

 陽菜は荷解きも忘れ、窓辺に駆け寄る。

「なんだその反応は……フフッ」

「だってテレビでしか見たことないんだもん!」

 律は肩をすくめた。彼女の無邪気な声が、遠くまで届いていきそうだった。


 翌日。ふたりはヴェルサイユ宮殿を訪れた。金色の門、果てしない庭園。豪奢な天井画が、王の時代をそのまま閉じ込めている。


「わぁ……豪華……。時間が止まってるみたい」

 立ち尽くす陽菜の横で、律がふいに囁いた。


「陽菜。本当はここが実家だろう?」

「え?」

「君は世界一のお姫様だから」

「……律、それはさすがにキザすぎるよ」


 陽菜が頬を染めて軽く睨むと、律は「本気だ」と真顔で返す。そのあまりに真剣な声色に、陽菜は呆れながらも笑みをこぼした。


 午後は、シャンゼリゼ通りを散策。歴史とモードが入り混じる華やかな通りを、ふたりは並んで歩く。


「好きなもの、なんでも買っていいぞ」

「えっ、やった!……え、ほんとに?」


 目を輝かせたのも束の間。ショーウィンドウに並ぶ値札を見て、陽菜はそっと後ずさった。


「うーん……やっぱり見るだけでいいや」

「慎ましいな。気にしなくていいのに」

「だって、高そうだし……」

 その時、ふいに穏やかな声がした。

「Bonjour, mademoiselle」

 振り向けば、黒い帽子を斜めにかぶった青年が立っていた。スケッチブックを抱えた、芸術家風の青年だ。

 「ぼ、ボンジュール!」

 緊張した陽菜の返事に、青年は人懐こく微笑む。

「Vous êtes très belle… Je suis peintre. Accepteriez-vous d’être ma muse ?」

(あなたはとても美しい。私は画家で、モデルを探している。あなたを私のミューズにしたい)

 矢継ぎ早のフランス語に、陽菜は目をぱちぱちさせる。

「ミューズ……?」

 かろうじて聞き取れた単語を反芻していると、背後から低い声が遮った。

「Elle est ma femme. Je n’autorise pas ça.」

(彼女は私の妻だ。許可しない)

 いつの間にか隣に立っていた律が、完璧な発音で言い放つ。彼は陽菜の肩をぐっと抱き寄せ、画家をまっすぐ見据えていた。

 画家は一瞬目を見開いたが、すぐに小さく肩をすくめる。

「Je comprends. Quel dommage... Adieu.」

(わかりました。残念です……。さよなら)

 優雅に一礼し、青年は人波に消えていった。

 陽菜は、きょとんとして夫を見上げた。

「律……フランス語、話せたの?」

「ミドルスクールのときに習った」

「ひー! さすが律……」


 感心していると、不意に腕を引かれた。

「わっ」

 気づけば、律の胸の中にすっぽり収まっていた。


「ちょ、ちょっと! ここ、道の真ん中だよ!」

「大丈夫だ。ここはフランスだ」

「そういう問題!?」

「危ないから、俺の側を歩いて。……君は、俺が思っている以上に綺麗すぎる」

 耳元で囁かれた声に、陽菜の顔が一気に熱を持つ。

 抗議の言葉も、恥ずかしさに紛れて消えてしまった。

「……わかった。離れない」

 彼の胸に顔を埋めるようにして小さく呟く。

 遠くで鳴り始めた鐘の音が、春のパリの午後を包んでいた。







 数日後。日本、いつものオフィス。

 パリの華やぎとは対照的な、静かで規則正しい空気が流れている。

 陽菜は、小さな紙袋を抱えて微笑んだ。

「水野さん、お疲れ様です。お土産です」

 チョコレートの小箱を手渡すと、水野は笑顔で受け取った。

「あ、陽菜さん! ありがとうございます。どうでした? パリ」

「すっっごく楽しかったです! 街ぜんぶが映画みたいで!」

「へぇ、いいなぁ。僕、海外行ったことなくて。凱旋門とか──」

 陽菜が夢中で話していた、その時だった。


「水野」

 凛とした低い声が、フロアの空気を一瞬で引き締めた。社長室のドアの前に、律が立っている。

 視線は真っすぐ水野だけに向けられていた。


「お前に話がある。会議室へ」

「……はい。すぐ伺います」

 水野が慌てて立ち上がる。

 オフィスの空気がぴんと張りつめた。

(もしかして……嫉妬?)

 パリの路上での一件が脳裏をよぎる。いくらなんでも、ただお土産を渡していただけなのに。



 会議室のドアが閉まる。

 ブラインド越しに、律が何かを語り、水野が驚いたように目を見開き──やがて深く頷いた。

 数分後。

 先に出てきた水野の顔には、驚きと興奮が混じったような表情が浮かんでいた。

「……おめでとうございます、葉山社長」

「ありがとう。正式な辞令は追って出す。よろしく頼む」

 短く言い残し、律は社長室へ戻っていく。

 陽菜は、そっと水野に駆け寄った。

「あの、どうしたんですか? 怒られたんじゃ……」

 水野は頬を掻きながら、少し照れたように笑う。

「……僕、ヨーロッパ支社の立ち上げメンバーに選ばれました」

「えっ!?」

「パリ、だそうです。社長に『堅実な仕事ぶりを評価している』って言われて……」

 胸の奥がふっと温かくなる。

 嫉妬じゃなかったんだ。


 律は、ちゃんと見ていた。彼女が知らないところで、社員の努力を、未来を、静かに見守っていた。

 陽菜はそっと息をつく。

──あの春のパリで吹いた風が、今またこのオフィスにも流れている気がした。
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