イケメンIT社長に求婚されました─結婚後が溺愛本番です!─

○水野大輔、パリで見つけた光

 僕がヨーロッパ支社の立ち上げメンバーに選ばれたと聞いたのは、昼休みの終わりだった。

 葉山社長の口から「任せたい」と言われた瞬間、胸の奥が熱くなった。


──認められた。

 それは、ずっと願っていた言葉だった。


 けれど、同時に胸を締めつけたのは、別の痛みだ。


 陽菜さんと、離れる。

 初めての海外。初めての孤独。

 喜びと不安がないまぜになって、呼吸が浅くなった。


 * * *


 そして、旅立ちの日。

 パリ=シャルル・ド・ゴール空港に降り立った瞬間、胸がざわめいた。


 「わぁ……全部、フランス語だ……!」

 アナウンスも、看板も、通りすぎる人の声も。異国の言葉の洪水に、心が震える。


 タクシーに乗り、アパートメントへ向かう。


 車窓に流れる町並み。

 古い石造りの建物。

 カフェのテラス。

 スーツを着た人々がワイン片手に語らっている。


──ここで、生きていくのか。

 胸が高鳴る一方で、ほんの少し怖かった。


 アパートの部屋に入ると、静けさが広がる。

 白い壁に、小さなテーブルがひとつ。

 スーツケースを床に置き、息を吐いた。


 「……やっていけるだろうか」


 誰も答えてはくれない。

 陽菜さんの笑顔が、ふと脳裏をかすめた。

 彼女なら、「大丈夫だよ」と笑うだろう。

 その言葉を、何度も胸の中で繰り返した。


 翌朝。

 僕はGoogleマップを片手に、パリの石畳を歩いていた。

 カフェのテラスからは甘いパンの香りが漂い、どこかの窓からアコーディオンの音が聞こえる。

 だが、心の余裕なんてなかった。


「……Rue Saint-Honoré、って……どっちだ?」


 標識は全部フランス語。

 似たような通りばかりで、どこをどう歩いても地図の青い点がぐるぐる回る。

 スマホの電波も不安定で、画面が固まったまま動かない。


「えぇと……どっちだ……?」


 つぶやきながら、背中にじっとりと汗が滲んだ。

 冷たい朝の風が頬を撫でるのに、額から流れる汗が止まらない。まるで異国という現実が、じわじわと身体に染みこんでくるようだった。


 そのときだった。


「やぁ、君、日本人?」


 唐突に、背後から流暢な日本語が飛んできた。


 びくっと振り向く。


 そこに立っていたのは、くるくるとした明るい茶髪の青年だった。


 『SHINOBI』と書かれたTシャツ。袖から伸びる腕は意外にがっしりしていて、日焼けした肌が健康的に光っている。


 いたずらっぽい笑みに、太陽みたいな人だ、と思った。


「あ……はい。えっと、日本語……お上手ですね」

 声が少し震えていた。まさか異国で日本語を聞くなんて思ってもいなかったから。


 青年は肩をすくめ、歯を見せて笑った。

「まぁね。大学で日本語学科に通ってるんだ。アニメ好きで」

「見れば分かりますよ。そのTシャツ」

 僕が指をさすと、彼は「ハハッ!」と屈託なく笑った。


「君も好きなの?」

「もちろん。26歳、世代ど真ん中なんで」

「同い年だ!」

 ぱっと目を輝かせて、彼は手を差し出した。

「俺、マシュー。よろしく!」

「僕は大輔」


 指先が触れた瞬間、あたたかかった。

 言葉も文化も違う国で、ようやく見つけた「繋がり」。

 少しだけ、心が軽くなるのを感じた。


「それで? どこ行くの?」

「オフィスです。ヨーロッパ支社の立ち上げで……でも、完全に迷いました」

 マシューは僕のスマホを覗き込み、あっさりと笑った。

「へー、すぐそばだ。じゃ、案内してやるよ」


 彼の足取りは軽く、迷いがない。僕は必死に追いつきながら、石畳の上を歩いた。

 やがて辿り着いたのは、小さな白い建物。扉の向こうには、段ボールが山積みで、机も半分しかない。

 それでも、胸が高鳴った。

「ここが……ヨーロッパ支社、か」


 マシューが興味津々で中を覗く。

「日本のIT企業なんだね?」

「うん。Corven社っていって、VelvetっていうSNSアプリを作ってる。今はヨーロッパ支社の立ち上げ段階」

 マシューの瞳がきらりと光る。

「へぇ……なぁ、大輔。俺も仲間に入れてもらっていい?」

 思わず目を瞬いた。

「えっ?」

「今、インターン先探しててさ。日本企業、ずっと憧れてたんだ」

 勢いがすごい。けれど、その真っ直ぐな熱が不思議と心地よかった。

 僕は頬を緩めながら言った。

「……じゃあ、社長に掛け合ってみますね」

 マシューが嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、胸の奥で小さな声が響いた。

──あぁ、パリでの生活、悪くないかもしれない。


 * * *



 数日後。

 葉山社長は、僕からの報告を聞くなり即答した。

 「いいじゃないか。現地の若者が日本の文化に興味を持っているのは素晴らしい」

 モニター越しの声は、いつものように落ち着いていて、どこか誇らしげだった。

──この人の下で働けてよかった。

 心から、そう思った。


 こうして、マシューは正式にチームに加わった。

 日本語とフランス語の両方を自在に操る彼は、まるで潤滑油のように支社全体を明るくしてくれた。


 仕事は忙しかったが、毎日が充実していた。

 朝はカフェでエスプレッソを飲み、日中はチームの調整とクライアントとの打ち合わせ。

 夜はマシューと並んで資料を作り、言葉の壁に苦笑しながらも、互いに助け合った。


 ふと気づけば、僕はもう、ひとりじゃなかった。



 * * *

 ある夜。

 仕事を終えた僕たちは、セーヌ川沿いのバーで一息ついていた。

 外の風は少し冷たく、遠くで街灯が金色に滲んでいる。

「乾杯!」

 マシューが掲げたグラスに、僕のグラスが軽くぶつかる。

 泡がぱちぱちと弾けて、グラスの内側に光が踊った。

 そのとき、カウンターの向こうから、ひとりの女性が笑顔で近づいてきた。

 艶のある金髪に、深い碧眼が光っている。

 「コンニチハ~!」

 片言の日本語のあと、彼女は楽しげにフランス語をまくしたてる。

 だが、僕にはさっぱり分からない。


「え、えっと……マシュー?」

 助けを求めると、彼は苦笑して肩をすくめた。


「この子が言ってる。『大輔、かっこいい』って」

「えっ、僕が……?」

 思わず声が裏返る。


「筋肉あるし、優しそうだって」

「そんな……自信なんて、ないよ」


 マシューはグラスを傾けながら、じっと僕を見た。

 その視線に、何かを見透かされたような気がして、息をのむ。


「……つらい恋でもしてるの?」

 その一言に、心臓が跳ねた。

 しばらく黙っていたけれど、もう隠せなかった。

「うん」

 グラスの中の泡を見つめながら、ゆっくり言葉がこぼれた。

「決して実らない、片想い。相手は既婚者で……しかも、誰よりも大切な人に、心から愛されてる」


 マシューは黙って聞いていた。

 やがて、静かに僕の肩をぽんと叩く。


 「……つらかったんだな。まぁ、飲め」

 その優しい声に、張りつめていた糸が切れた。

 気づいたら、涙が頬を伝っていた。

 止めようとしても、止まらなかった。

 マシューは何も言わず、ただ隣で同じようにグラスを傾けてくれた。言葉よりも温かい沈黙が、そこにはあった。

 外では、セーヌの水面がゆらめいていた。

 フランス語と日本語が入り混じる、不思議で、やさしい夜。

 その夜、僕たちは飲み明かした。

 空が白み始めるまで、語って、笑って、泣いた。



 * * *



 それからの日々は、嵐のように過ぎていった。

 マシューの柔軟な発想と、僕の地道な調整力がかみ合い、ヨーロッパ支社は信じられないほどのスピードで成長していった。

 互いの得意を認め合い、支え合い、ぶつかりながらも前に進んだ。

 気づけば、彼は僕にとって『同僚』を越えた存在になっていた。

 そして、数か月後。
 社内報の見出しが、モニターに映し出された。



> Corven Europe、初年度黒字化へ。

> 若きリーダー水野大輔と、現地メンバーの友情が支えた快進撃。



 僕は無意識に笑っていた。
 胸の奥がじんと熱い。

 あのとき感じた不安も、孤独も、全部ここに繋がっていたんだ。

 窓の外に広がるパリの空を見上げた。

 白い雲の向こう、どこかで葉山社長と陽菜さんが笑っている気がした。

 「……ありがとう。僕、ちゃんとやれてますよ」

 パリの風が頬をなでた。

 それはまるで、遠い日本から届いた、やさしいエールのようだった。
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