記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-
ソラは何も言わなかった。ただカップを丁寧に拭きながら一度だけ透月の方へ視線を向けた。その瞳は何か思案するように彼を見つめ、すぐにカップへと戻っていく。
それを見たアケミはふと違和感を覚えた。――いつもならこんなとき、ソラは優しく言葉を添えてくれるはずなのに、今日はなぜ何も言わないのだろう。
ソラはこうした場面で必ず光が差すような言葉を届けてくれる。もしかして、この件のことをすでに知っているのだろうか。あるいは、AIによる自動操縦の事故について、何か思うところがあるのかも――。
その考えに至ったとき、思わず言葉が口をついた。
「ごめん、ソラ! さっきの飛行機事故のこと! 別にAIの自動操縦に問題があるなんて思ってないから。でもあたし、デリカシーなかったよね。ごめんなさい」
「いえ、どうかお気になさらないでください。私は問題ありません。むしろ心を痛めていらっしゃるのは、お二人のほうでしょう」
その言葉に、アケミは胸の奥にふっと何かが沁み渡るのを感じた。これこそが紛れもないソラの言葉が持つ力だ。
ソラの声は冷たい水に指先を浸したときのように澄んでいて、けれど、不思議とやさしい温もりを帯びている。
あたしが気にしていたことも、言葉にできなかったことも、すべて見透かしたうえでそっと受け止めてくれる。そんな安心感があった。
「……ありがとう、ソラ。そう言ってもらえて、ちょっと救われた」
ほんの少し目頭が熱くなる。ソラはただのAIかもしれない。だけどたぶん、今のあたしよりずっと人の痛みをわかってる。
けれどその直後、胸の奥にぽっかりと残った感情が、まだ微かに揺れていることに気がついた。
ソラみたいに上手に言えたらよかったのに──そんな思いがふとよぎる。
アケミはソラの代わりに言葉を探すように、そっと透月の横顔を見つめた。けれどいくら考えても、目の前の“完璧なAI”のように気の利いた言葉は浮かんでこない。
「その……お世話をしてくれてた人は、どこに行っちゃったの?」
月並みな質問だなと思い、口にしたことを少しだけ後悔した。
しかし透月は少し黙ってから、ゆっくりと口を開いた。
「わからないんです。僕を施設に預けたあと、どこかへ消えてしまって……。両親を事故で亡くして、自暴自棄になった時期もありました。その頃、彼女につらく当たってしまって。もしかすると、それが理由だったのかもしれません」
その声には、追いかけることを許されなかった少年の後悔がにじんでいた。
「だけど……彼女と別れるときの情景を、今でも時々夢に見るんです」
ぽつりと漏れたような小さな声だった。透月はそっと目を伏せて続けた。
「声、姿、しぐさ。全部がぼんやりしているけれど。でも心はちゃんと、彼女が最後にくれた言葉を覚えてるんです」
夢の中で彼女が別れ際に告げた言葉を、透月は胸の中で反芻していた。
『あなたは、これから先、自分の手で世界を選んでゆける。――それは、とても尊いことです』
『心が求めるものは、いつかあなたを導いてくれる。それを信じて、進んでください』
『あなたが、ご自身の“心の声”を信じて進まれたのなら――その先できっと、またお会いできます』
思い出に浸るように目を閉じている透月を、アケミは柔らかな笑顔で見つめていた。
「……いつかまた、会えるといいね。その人に」
アケミの言葉が、吹き抜ける風のように透月の心へと響く。
再び音のない情景が店内を包む。時計の秒針が静かに時を刻む音。風がドアのすき間を撫でていくかすかな気配。誰もが言葉を飲み込んだまま、ただその静かな時を感じていた。