眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
生活安全課のフロア。
児童相談所の職員が来庁していると聞いて、早瀬が応接スペースに向かうと、すでに花音は待っていた。

黒のジャケットにベージュのブラウス。派手さのない、けれど丁寧な身なり。
彼女は立ち上がって、控えめに会釈をした。

「杉並署の早瀬です。昨日は、現場でどうも」

「佐原です。よろしくお願いします」

声は落ち着いていたが、その背筋の硬さが、“児相の人間”であることを物語っていた。
場の空気を読むことに慣れている――だが、その空気に馴染むわけではない。

(緊張してるな)

そう思いながらも、早瀬はそのことには触れなかった。

少し遅れて、新田が現れた。
スラックスのポケットに手を突っ込んだまま、足音も軽く近づいてくる。

「児相の佐原さんね? 昨日の夜、現場にいた。新田です」

「お世話になっております」

名刺交換もそこそこに、新田は壁際に立ち、ポケットの手帳を開きながら早瀬に目をやった。

「訪問の約束は、取り付けたんだな?」

「はい。本日、午前11時からと伺ってます」

花音が答えると、新田は小さくうなずき、眉をしかめた。

「……とりあえず、会えりゃ安心だが。そんなにすんなり行くとは思えん」

静かな一言に、場の空気がわずかに重たくなる。

花音が言葉を飲み込む気配を感じて、早瀬は少しだけ間を取ってから言った。

「昨日、応答拒否だった時点で、こっちとしては用心してる。児相の対応ってことで、今朝うちに連絡が来たわけですけど……」

(“期待はしていない”という温度がある)

言葉では言わなくても、そういう雰囲気は伝わる。

花音は、カバンからケースファイルを取り出しながらも、顔を上げなかった。

(たぶん、こういう視線に慣れているんだろう)

――でも、慣れてることと、平気でいられることは違う。

「じゃ、そろそろ向かうか。現場で合流する形で」

新田が促し、応接を後にする。
早瀬は花音に軽く頭を下げた。

「道中、気をつけてください。現場、ちょっと狭いですけど、うちの車は先に着いてますんで」

「ありがとうございます。そちらも、よろしくお願いします」

杉並署の駐車場に出ると、春の風に混じって、微かに雨の匂いがした。
曇り空の下、それぞれの車両がエンジンをかける。

運転席に乗り込んだ新田が、低い声でつぶやいた。

「面会だけで終わると思うか?」

「……いや、たぶん終わらないでしょうね」

早瀬は答えながら、バックミラー越しに署の玄関口を見た。
花音の姿が、小さく車に乗り込むのが見えた。

(あの人――“ちゃんと分かってる”目をしてた)

だからこそ、難しい。

「動けるかどうか、じゃない。“動けない理由”を、どれだけ持たされるかだ」

新田の言葉に、早瀬は静かにうなずき、ハンドルを切った。
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