眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
雨は、約束の時間に合わせたように、静かに降り始めていた。
傘をさすほどではないが、肌にじんわりと冷たさが染みる。

アパートの階段を上がると、薄暗い廊下の奥に、目的の部屋。
プレートには「川野」とだけ記されている。

早瀬がインターホンを押す。
一度、短く。
反応は――ない。

「……もう一度」

花音の小さな声にうなずき、今度は長めに押す。
だが返事はなく、玄関のドアも静まり返っている。

横で立つ新田の表情が、ゆっくりと曇っていくのがわかる。

「昨日と同じか……?」

「かもしれません」

その一言で、空気が強張る。

早瀬はドアのすぐ横に立ち、軽くノックを加えた。

「杉並警察です。児童相談所と連携して訪問に来ています。ご在宅であれば、応答をお願いします」

そのとき――中から、かすかな音がした。
数秒の沈黙のあと、ゆっくりとドアが開く。

「……何?」

現れたのは、川野美咲だった。
髪は乱れ、頬が少しこけて見える。
表情に疲れが滲み、声には明らかな警戒があった。

「本日11時、児相の佐原と申します。結咲さんのご様子について、確認させていただきたく――」

「無理。寝てる。昨日も言ったけど、疲れてるの。わざわざ来なくていいから」

そう言って、ドアを閉めかける。
新田が前に出かける気配を見せるが、花音が一歩、静かに踏み込んだ。

「結咲さんの安全確認は法的な義務です。10分だけで構いません。お子さんに直接会わせていただければ、それで終わります」

「……はあ?」

「寝ているなら、起こさなくても大丈夫です。ただ、呼吸の確認と外傷の有無だけ。あくまで最低限です。今、ここで拒否されれば、再度、臨検の申請に進む必要が出てきます」

わずかな沈黙。

やがて、美咲が舌打ちし、ふてくされたように肩をすくめた。

「……じゃあ、勝手に見りゃいいじゃん。でも、入るな。玄関で」

ドアが中途半端に開けられたまま、彼女は部屋の奥へと引っ込んでいく。

花音と早瀬、新田は、互いに目を交わし、玄関の段差で足を止める。
靴を脱がぬまま、室内の様子を伺う――

部屋は、散らかっていた。
床に衣類やおむつのパッケージ、使いかけの哺乳瓶。
壁のカレンダーは数ヶ月前で止まっており、カビたマグカップがテーブルの隅に置き去りにされている。

部屋の一角、小さな布団の上に、結咲ちゃんが眠っていた。
呼吸は深く、リズムも整っている。
手足に目立った傷やアザは見られない。

「お子さん、最近熱は出ていませんか?」

花音が声をかける。美咲はソファに座りながら、視線も向けずに答えた。

「別に。寝てるんだから元気なんじゃないの?」

「予防接種の予定などは……?」

「知るかよ、あんなもん、意味ないんだって」

花音は何度か言葉を探すが、美咲はほとんど会話にならない調子で、短く、乱暴に返してくる。

そしてついには、ため息混じりに立ち上がると、玄関に向かって言った。

「もうわかったでしょ。あんたらが来たって何も変わんないし。出てって。帰って」

有無を言わせない声音だった。

花音が言いかけた言葉を、ドアの金属音が無遠慮に遮った。
――バタン、と音を立てて閉められる玄関扉。

その前に立ち尽くしたまま、花音は静かに口をつぐんだ。

新田が小さく息を吐いた。
雨は、さっきよりも少し強くなってきていた。
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