眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
車のエンジンを切ったあとも、花音はしばらく動けなかった。

窓の外では、まだ小雨がフロントガラスを叩いている。
ワイパーは止めたまま、粒のような水滴がじわじわと視界を曇らせていた。

静まり返った車内で、花音はシートに沈み込むようにして、深く、息を吐いた。

その瞬間、不意に込み上げてきたものがあった。
視界がぼやける。
ああ――泣いているんだ、と、ようやく自覚した。

悔しさだった。
安堵なんか、一欠けらもない。
ただ――ただ、あの子が息をしていた。
それだけ。
それだけなのに、今はそれすら、何の慰めにもならない。

「……何も、変わってない」

呟いた言葉が、思った以上に震えていた。

結咲ちゃんの命が、ひとつの賭けのように見えて仕方なかった。
賭けなんてしたくない。守るためにここにいるのに。
でも、現実は――どうだ?

母親とは、ほとんど言葉を交わせなかった。
心の扉を開かせるどころか、ぎりぎりで押し戻されただけだ。
「もうわかったでしょ。出ていって」
その言葉が、まだ耳の奥に残響している。

花音は、ダッシュボードに置いたティッシュでそっと涙をぬぐった。

言葉は、時にナイフになる。
不用意な一言が、対話の橋を壊す。
でも、同じ言葉が、薬にもなりうる。
痛みを和らげ、少しずつ心を溶かしてくれることだってある。

言葉は刃でもあり、鍵でもある。
その使い方を、私は本当に間違っていないのか。

もし一歩踏み込みすぎていたら。
もし逆に、一歩足りていなかったとしたら。
その“たった一言”が、今日の、明日の命を左右してしまうかもしれない。

――その重さを、知っている。
だからこそ、怖い。

一瞬で崩れる。
何ヶ月かけて築いても、一言で全てが壊れる。
それが“信頼”というものだ。

ハンドルの上に手を重ねて、花音は目を閉じた。

この手では、何も掴めないかもしれない。
けれど、あきらめたら、それこそ――終わりだ。

涙はもう止まっていた。

花音はティッシュを丸めて助手席のゴミ箱に落とすと、静かに深呼吸をした。
少しだけ首を回し、肩の力を抜く。
あと数分で、また、いつもの業務が始まる。

現実に戻る。
それがどれだけしんどくても。
何も変わらなかったとしても。

――“変えたい”と思う限りは、立ち止まるわけにはいかない。

花音は、無言のまま車のドアを開けて外に出た。
雨は、いつの間にか上がっていた。
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