眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
フロアの扉を引くと、微かにプリンターの作動音と、パソコンのキーボードを叩く音が耳に入ってきた。

花音はロッカーにカバンを戻し、上着をハンガーにかけてから、自分のデスクに歩く。
すでに何通かのメールが届いていた。新しい通告案件も含まれている。

「おかえり。雨、大丈夫だった?」
隣の席の三宅が、声をかけてくる。30代半ばの女性職員。
表情は明るいが、どこかお互いの疲労がにじみ出た笑顔だった。

「うん……ちょっと降られました」

椅子に腰を下ろすと、花音はすぐにノートパソコンを開き、報告書の作成に取りかかった。
川野結咲ちゃんとの面会記録。母親との対話記録。部屋の様子、児童の健康状態。
事実を淡々と、しかし丁寧に書き起こす作業は、どこか心の再確認のようでもあった。

少し離れたコピー機の前では、別のケースワーカー二人が、小声で通告案件について話し合っている。

「朝の通告、あれ結局ガセだったらしいよ。近所の人が過敏になってるだけって」
「でも、似たケースで本当に虐待だったっての、去年あったじゃん」
「うん……だから、一応、明日訪問には行くって」

いつもの会話だ。
通告の真偽。現場の確認。報告書。面談。再通告――
“いつもの”が、すでに“麻痺”と紙一重だということを、花音は知っている。

係長の朝岡が、フロアの端で別の若手と資料の確認をしているのが見えた。
「さっきの面会、どうだった?」と聞かれるかもしれない。
いや、すでにメールで報告は入れてある。形式的な確認になるだろう。

花音は、小さく息を吐いて手を止める。

気がつけば、爪の先が少し白くなるくらい、マウスを強く握りしめていた。

――もう泣いてない。でも、抜け殻のようだ。
さっきまであの子の寝顔を見ていた自分と、今この静かなオフィスでキーボードを打っている自分が、別人に思える。

「花音さん、午後の定例、15時からですからねー」
事務職の佐野さんが声をかけてくる。

「はい、わかってます」

無理やり、笑顔をつくる。
笑うのが仕事ではないけれど、笑わないと立ち止まりそうだった。

モニターの中のカーソルが、文章の続きを待って点滅している。

花音は深く座り直し、再び手を動かし始めた。
この子のための記録だ。
自分のための気持ちじゃない。
それだけは、絶対に忘れてはいけない。
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