眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
長方形のテーブルを囲むようにして、10人余りの職員たちが座っている。
部屋の空調はやや強めで、窓際の花音の席には冷たい風が当たっていた。
「では、定例はじめます。進行は私、朝岡がやります。まずは本日の緊急案件から」
係長の朝岡が手元の資料を見ながら、抑揚少なめに口を開く。
最初に挙げられたのは、三鷹市で発生した2歳児の深夜徘徊。
警察からの通告で、家庭内の育児放棄の疑い。
現場確認済み、母親が精神疾患を抱えている可能性あり、医療との連携が必要という案件だった。
「これはハイリスク判定に移行。明日、病院同行を含めた再訪問を手配済みです。担当は鈴木さん」
「はい、了解です」と隣席の鈴木が答える。表情は落ち着いている。
その次に、今日の川野結咲の案件が呼ばれた。
「杉並区桃栄1丁目の川野結咲ちゃんの件、警察官と現地訪問済み。面会は成立。ただし、保護者との対話は不十分。報告は花音さんからお願いします」
「はい」
花音は手元の資料を軽くめくり、穏やかな声で説明を始めた。
「昨日深夜の通報を受け、本日午前中に訪問。母親はインターホン後の応答に時間を要しましたが、最終的には入室の許可を得て、児童と直接面会しました。寝てはいましたが、呼吸に異常なし、外傷も確認されませんでした」
「母親とのやり取りは?」
「会話は成立したとは言えません。“もうわかったでしょ、出ていって”と、玄関で追い返される形になりました。ただ、敵対的な言動や暴力の兆候は今のところ確認されていません」
朝岡はしばらく黙り、資料に目を通してから一言。
「リスク判定は中。引き続きモニタリング。現段階での臨検・一時保護の適用はなしで」
花音は、小さく「はい」と答えた。
周囲に座る同僚たちは、花音の報告に特に表情を変えることもなく、次の案件へと資料をめくっていく。
(……この空気。やっぱり、何も起きなければ“中リスク”のままなんだ)
次に報告されたのは、吉祥寺のワンオペ育児家庭での、深夜の子どもの泣き声通報。
この案件では、母親が対応に出なかったため、面会不成立。
過去にも複数回通告歴があり、現場確認で部屋の乱雑さが問題視されたという。
「この案件、私の方で引き取りましたが、今朝の報告からハイリスクに移行してます」
担当の坂口が落ち着いた調子で述べると、周囲の職員たちは一様に頷く。
「一人親で夜間勤務か……児童の安全確認、明日また連絡して。最悪、一時保護の検討も」
朝岡が即断する。
(同じように泣いていた子。出てこなかった母親。……何が違うの?)
花音は、言葉を飲み込んだ。
結咲ちゃんの家庭だって、通告履歴があって、玄関越しでしか会話にならなくて、それでも「中リスク」。
対話の兆しすらなかった吉祥寺の案件は、ハイリスク。
「……基準は、あくまで積み上げた“エビデンス”」
かつての指導係の言葉が脳裏に蘇る。
でもその“エビデンス”は、時に温度も匂いも、あの部屋の息苦しささえ、拾ってくれない。
会議は粛々と進む。
誰もが冷静だった。
誰もが、日々の「確率」に合わせて仕事をしていた。
花音は、うつむき気味にメモを取りながら、心の中で何かが静かにきしむ音を聞いていた。
部屋の空調はやや強めで、窓際の花音の席には冷たい風が当たっていた。
「では、定例はじめます。進行は私、朝岡がやります。まずは本日の緊急案件から」
係長の朝岡が手元の資料を見ながら、抑揚少なめに口を開く。
最初に挙げられたのは、三鷹市で発生した2歳児の深夜徘徊。
警察からの通告で、家庭内の育児放棄の疑い。
現場確認済み、母親が精神疾患を抱えている可能性あり、医療との連携が必要という案件だった。
「これはハイリスク判定に移行。明日、病院同行を含めた再訪問を手配済みです。担当は鈴木さん」
「はい、了解です」と隣席の鈴木が答える。表情は落ち着いている。
その次に、今日の川野結咲の案件が呼ばれた。
「杉並区桃栄1丁目の川野結咲ちゃんの件、警察官と現地訪問済み。面会は成立。ただし、保護者との対話は不十分。報告は花音さんからお願いします」
「はい」
花音は手元の資料を軽くめくり、穏やかな声で説明を始めた。
「昨日深夜の通報を受け、本日午前中に訪問。母親はインターホン後の応答に時間を要しましたが、最終的には入室の許可を得て、児童と直接面会しました。寝てはいましたが、呼吸に異常なし、外傷も確認されませんでした」
「母親とのやり取りは?」
「会話は成立したとは言えません。“もうわかったでしょ、出ていって”と、玄関で追い返される形になりました。ただ、敵対的な言動や暴力の兆候は今のところ確認されていません」
朝岡はしばらく黙り、資料に目を通してから一言。
「リスク判定は中。引き続きモニタリング。現段階での臨検・一時保護の適用はなしで」
花音は、小さく「はい」と答えた。
周囲に座る同僚たちは、花音の報告に特に表情を変えることもなく、次の案件へと資料をめくっていく。
(……この空気。やっぱり、何も起きなければ“中リスク”のままなんだ)
次に報告されたのは、吉祥寺のワンオペ育児家庭での、深夜の子どもの泣き声通報。
この案件では、母親が対応に出なかったため、面会不成立。
過去にも複数回通告歴があり、現場確認で部屋の乱雑さが問題視されたという。
「この案件、私の方で引き取りましたが、今朝の報告からハイリスクに移行してます」
担当の坂口が落ち着いた調子で述べると、周囲の職員たちは一様に頷く。
「一人親で夜間勤務か……児童の安全確認、明日また連絡して。最悪、一時保護の検討も」
朝岡が即断する。
(同じように泣いていた子。出てこなかった母親。……何が違うの?)
花音は、言葉を飲み込んだ。
結咲ちゃんの家庭だって、通告履歴があって、玄関越しでしか会話にならなくて、それでも「中リスク」。
対話の兆しすらなかった吉祥寺の案件は、ハイリスク。
「……基準は、あくまで積み上げた“エビデンス”」
かつての指導係の言葉が脳裏に蘇る。
でもその“エビデンス”は、時に温度も匂いも、あの部屋の息苦しささえ、拾ってくれない。
会議は粛々と進む。
誰もが冷静だった。
誰もが、日々の「確率」に合わせて仕事をしていた。
花音は、うつむき気味にメモを取りながら、心の中で何かが静かにきしむ音を聞いていた。