眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
その週の金曜日、仕事帰りの新宿の小さなビストロに、花音と中島瑠奈の姿があった。
以前、ランチで訪れたお気に入りの店。
夜はキャンドルが灯され、静かに音楽が流れる。

「まさか、赤尾香澄さんでまた繋がるとはね」

先に席に着いていた瑠奈が、グラスの水を口に運びながら小さく笑う。

「ほんと、電話越しに“瑠奈?”って返ってきたとき、びっくりして心臓止まるかと思った」

「私もだよ。でもさ、今、花音が担当してて本当に良かったと思った。あのケース、どこに転ぶか分からないもん。精神的にもすごく脆いし、でも“助けて”とは言えないタイプ」

花音は、頷きながらナプキンを膝に乗せる。

「……わかる。開けてくれたドアの向こうで、ずっと背中向けてる感じ。こっちを向かせようとすると、すぐ鍵かけちゃう」

「それでも、花音は扉の前にしゃがみ込んでいられる人でしょ。昔からそう。どんなに静かにしか返事が来なくても、絶対聞き逃さないし」

花音はふっと笑った。
「懐かしい言い方するね、でも嬉しい。……瑠奈は、彼女の“うつ状態”って、どう見てる?」

「抑うつというより、“感情が擦り切れた状態”って言った方が近いかな。あの人、たぶん“母親であること”に人生全部注ぎ込んで、それが今もう限界を超えてる。本人も限界に気づいてない。……気づく余裕すらない感じ」

「その割に“夜泣きがある”って言ってた。小2なのに」

「それも、香澄さんのフィルターを通して見えてる世界だよ。実際は、夜中に彼女が覚醒していて、悠真くんが目を覚ますパターンかもって、私は見てる」

「うん、そんな気がしてきた」

料理がテーブルに並びはじめ、ふたりは少し会話を止めてナイフを手に取った。

「ところでさ」

ふと、瑠奈が表情を崩す。

「花音、彼とは順調?」

花音は一瞬きょとんとしたが、すぐ意味を悟って苦笑した。

「……うん、まあね。あの人、夜勤多いからすれ違うこともあるけど。なんだかんだ支えてもらってるなって思う」

「いいなぁ。話だけだけど、優しいもん、早瀬くん。あ、匠って呼んでるんだっけ」

「なんでその“にやにや”するの?」

「いやいや、幸せそうでなにより。ああ見えて、花音が泣きたいときはちゃんと黙って待ってくれるタイプでしょ?」

「……うん。ほんと、わかってるんだか鈍感なんだか、絶妙なんだよ」

「まさに“匠の技”だね」

ふたりはくすくすと笑い合い、ほんのひととき、職務の重圧を忘れたように会話を楽しんだ。

瑠奈はグラスを傾けながら、ふと真剣な顔になる。

「でもさ、ほんと無理しすぎないでね。香澄さんの件は、きっとこれからもっと揺れるよ。……関係ができはじめた“今”が、一番危ない」

花音は静かに頷いた。

「大丈夫。怖いけど、逃げないって決めた。悠真くんにも、香澄さんにも」

その言葉に、瑠奈は少し目を伏せたあと、顔を上げてにっこり笑った。

「じゃあ、私は後方支援に徹するね。困ったら、絶対連絡して」

「うん、ありがとう。瑠奈がいてくれてよかった」

夜の街はざわめいていたが、二人のテーブルには、静かな覚悟と友情が滲んでいた。
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