眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
報告書を提出し終えると、早瀬は深く背もたれにもたれた。
時計は20時を回っている。
雑然とした書類の山を脇に避け、席を立つと、フロアの奥にある給湯室へ向かった。

ポットの湯が微かに唸る音が、静まり返った室内に低く響く。
インスタントの粉を紙コップに入れて、慎重にお湯を注ぐ。
湯気の中にふっと立ち上る、コーヒーのにおい――その苦味に救われる夜も、もう数え切れない。

「……信頼関係、か」

花音が玄関先で語った言葉が、頭の中で再生される。

『私たちは、親を罰するために存在するのではなく、子供を守るためにいます。親との信頼関係を構築し、確実に児童の命を守るために。』

信念を持った言葉だった。
だからこそ、突き刺さる。

だが、早瀬にはどうしても腑に落ちないものが残っていた。

信頼なんて、子どもが死んでからじゃ意味がない。
目の前の命を守るには、「動くこと」がすべてだ。

児相が“動けない理由”は理解できる。
証拠がなければ動けない。
臨検のハードルは高い。
でも、その間にも、子どもは家の中で泣いている。
飢えて、怯えて、見えない傷を増やしていく。

もし次の通報が、冷たくなった子どもの遺体だったら。

「それでも“信頼関係”って言えるのかよ……」

小さく呟いた声が、給湯室のタイルに吸い込まれていく。

紙コップを手に取って、ひと口飲む。熱さが喉を刺した。

もちろん、すぐに踏み込めないことは、わかっている。
法律がある。手続きがある。臨検だって乱発できるものじゃない。
でも――。

「間に合わなかった、じゃ済まないんだよ」

何度も見てきた。
間に合わなかったケース。もう少し早く動いていれば、命が救えたはずの事例。
「もし」が脳裏に焼き付いたまま、忘れられない。

花音の言葉は、理想だと思う。
でも現場は、理想だけじゃ守れない。

機動的に、即座に動く。それが警察の役割だ。
動けない誰かの“代わり”になるために、自分たちがいる。

だからこそ、やりきれなかった。

あの訪問で結咲ちゃんを連れ出せたわけじゃない。
部屋は散らかっていたが、傷やあざは見つからなかった。
眠っていた彼女の顔は、静かで、無力で――。

「……せめて、無事でいてくれよ」

つぶやく声が、カップの淵に落ちた。

警察と児相。
目指すゴールは同じはずなのに、こんなにも考え方が違うのか。

でも、あの時。
雨の中、傘も差さずに頭を下げた佐原の背中は、今も目に焼き付いている。
必死さは、同じだった。
――だからこそ、余計にぶつかる。

早瀬は最後の一口を飲み干すと、紙コップをくしゃりと潰した。

「……また何かあったら、俺が動く」

それしかない。
それだけが、今の自分にできることだ。

静かになった給湯室。
その奥で、ひとつの覚悟が、無言のまま静かに沸き立っていた。
< 19 / 247 >

この作品をシェア

pagetop