眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
坂の上の家、静かな原点
春の名残が、まだ風の端に残っている。
早瀬は、いつもの花屋で淡い白のカーネーションを買い求め、坂道を登った。
こぢんまりとした木造の家。
手入れの行き届いた庭には、小さな紫陽花の蕾が色づきはじめている。
インターホンを押す前に、そっと門扉を開けた。
開け放たれた玄関から、柔らかい日差しと煎茶の匂いが漏れていた。
「……いらっしゃい、匠ちゃん」
「こんにちは、おばあちゃん。お変わりないですか?」
「ええ、元気にしてるよ。あなたこそ、忙しいのに……毎年、ほんとにありがとうね」
「いえ、こちらこそ……こうしてお参りさせていただけて、ありがとうございます」
玄関を上がり、仏間に通される。
そこには、小さな写真立てが一つ。
小学2年生の頃と変わらない、優しい目をした少年の笑顔があった。
早瀬は、手を合わせ、深く頭を下げた。
仏壇に花を添え、線香の煙を静かに見つめる。
孝介――。
同じクラスで、よく鬼ごっこをして、よくカードを交換して、よく笑っていた。
どこにでもいる、明るくて優しい、友だちだった。
あの春の日のニュース映像は、今も脳裏から離れない。
アパートの一室で発見された、小さな遺体。
産後うつに陥った母親とともに、無理心中を図ったが、母親だけが一命を取り留めた。
責任能力はないとされ、刑事責任を問われることはなかった。
その後、鑑定留置。精神科病院への入退院を繰り返していると聞いた。
早瀬は、何もできなかった。
その時は、ただテレビの中で名前を聞いて、声も出せず立ち尽くすことしかできなかった。
でも――。
「こんなことが、起きないようにしたい」
それが、彼のすべての原点だった。
「匠ちゃん、コーヒー淹れるけど、飲んでく?」
「いえ、今日は……すぐに失礼します」
「そう……お仕事、頑張ってね。きっと、孝介も喜んでる」
早瀬は、小さく頷いた。
仏壇にもう一度手を合わせると、そっと立ち上がった。
**
外に出ると、雲の切れ間から陽が差していた。
庭先の紫陽花が風に揺れて、静かに彼を見送っているようだった。
「あの時、誰かが助けてくれていれば――」
その思いが、今の彼のすべてだ。
後悔は、消えない。
けれど、誰かを救うことはできる。
次の“孝介”を生まないために、今を全力で生きている。
シャツの袖をまくり、深く息を吸った。
今日が、また始まる。
早瀬は、いつもの花屋で淡い白のカーネーションを買い求め、坂道を登った。
こぢんまりとした木造の家。
手入れの行き届いた庭には、小さな紫陽花の蕾が色づきはじめている。
インターホンを押す前に、そっと門扉を開けた。
開け放たれた玄関から、柔らかい日差しと煎茶の匂いが漏れていた。
「……いらっしゃい、匠ちゃん」
「こんにちは、おばあちゃん。お変わりないですか?」
「ええ、元気にしてるよ。あなたこそ、忙しいのに……毎年、ほんとにありがとうね」
「いえ、こちらこそ……こうしてお参りさせていただけて、ありがとうございます」
玄関を上がり、仏間に通される。
そこには、小さな写真立てが一つ。
小学2年生の頃と変わらない、優しい目をした少年の笑顔があった。
早瀬は、手を合わせ、深く頭を下げた。
仏壇に花を添え、線香の煙を静かに見つめる。
孝介――。
同じクラスで、よく鬼ごっこをして、よくカードを交換して、よく笑っていた。
どこにでもいる、明るくて優しい、友だちだった。
あの春の日のニュース映像は、今も脳裏から離れない。
アパートの一室で発見された、小さな遺体。
産後うつに陥った母親とともに、無理心中を図ったが、母親だけが一命を取り留めた。
責任能力はないとされ、刑事責任を問われることはなかった。
その後、鑑定留置。精神科病院への入退院を繰り返していると聞いた。
早瀬は、何もできなかった。
その時は、ただテレビの中で名前を聞いて、声も出せず立ち尽くすことしかできなかった。
でも――。
「こんなことが、起きないようにしたい」
それが、彼のすべての原点だった。
「匠ちゃん、コーヒー淹れるけど、飲んでく?」
「いえ、今日は……すぐに失礼します」
「そう……お仕事、頑張ってね。きっと、孝介も喜んでる」
早瀬は、小さく頷いた。
仏壇にもう一度手を合わせると、そっと立ち上がった。
**
外に出ると、雲の切れ間から陽が差していた。
庭先の紫陽花が風に揺れて、静かに彼を見送っているようだった。
「あの時、誰かが助けてくれていれば――」
その思いが、今の彼のすべてだ。
後悔は、消えない。
けれど、誰かを救うことはできる。
次の“孝介”を生まないために、今を全力で生きている。
シャツの袖をまくり、深く息を吸った。
今日が、また始まる。