眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
夕方、児相のフロアに活気が戻り始めた。
外回りを終えた職員たちが次々と帰所し、交代の当直が出勤してくる。
資料のファイル音や電話の着信音、バインダーを抱えた職員の足音が、忙しない中にも“通常運転”の空気を作っていた。
しかし――その空気は、朝岡の「少し集まってください」の声で、ピンと張り詰めることになる。
会議室の扉が閉じられ、数名の職員が椅子に腰掛け、数名は立ったまま耳を傾ける。
緊張を映したように、机の上の冷めたお茶の湯気すら霞んで見えた。
やがて、所長が入室する。
「……始めてください」
所長の短い指示を受け、朝岡が一歩前に出た。
「皆さん。もうニュースなどで概要を知っている方もいると思いますが、改めて、今日の件について共有します」
手にした資料をそっと置き、目を上げる。
「本日午前、我々が担当していたケース“赤尾悠真くん”の母親・香澄さんによる、無理心中未遂事件が発生しました」
小さなどよめきが起きるが、すぐに静まる。
「対応にあたっていた佐原花音は、家庭訪問の際に異変を察知し、単独で踏み込みました。その場にいた母親の安否を確認し、救急通報を行った後、自身も一酸化炭素中毒で搬送されました」
朝岡の声は、努めて落ち着いていた。
「幸い、母親・香澄さんも命に別状はなく、悠真くんは無事に保護されました。佐原も意識を取り戻し、医師からは『短期入院』との診断を受けています」
一部の職員が安堵の息を漏らすが、その表情は決して明るいものではない。
「……佐原については、当面、現場復帰の予定は立てません。本人が“戻れる”と言ったとしても、まずは身体と心の両面での状態が整うまでは、業務には戻しません」
朝岡の目が、室内の全員を一人一人捉えるように動く。
「その後も、復帰は“後方業務”から。現場には段階的にです。あの子には、今は“守られるべき側”でいてもらいます」
小さく「そうだね……」という声が、女性職員の口元から漏れた。
そのとき、所長が静かに前に出た。
「……今回の件で、我々は一人の職員を“危険”に晒しました」
声は小さいが、よく通る声だった。
「どれだけマニュアルが整っていても、現場での判断は一瞬で、そのリスクを背負うのは、最後には“人”です」
所長は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
しばしの沈黙が広がる。
朝岡は、その言葉の重さに目を伏せながらも、胸の奥に灯る決意を噛みしめていた。
“これは他人事ではない。あの子の代わりは、どこにもいない”
そして、ふと自分の席へ目をやる。
今は空席となった佐原のデスクには、彼女が置いていった付箋とペンがそのまま残されていた。
いかにも几帳面に整理された机の上――そこだけが、事件の前と変わらない“日常”を装っていた。
でも皆が知っている。
あの静けさの裏には、命を賭けた一つの“踏み込み”があったことを。
そしてその意味を、決して風化させてはならないことを。
外回りを終えた職員たちが次々と帰所し、交代の当直が出勤してくる。
資料のファイル音や電話の着信音、バインダーを抱えた職員の足音が、忙しない中にも“通常運転”の空気を作っていた。
しかし――その空気は、朝岡の「少し集まってください」の声で、ピンと張り詰めることになる。
会議室の扉が閉じられ、数名の職員が椅子に腰掛け、数名は立ったまま耳を傾ける。
緊張を映したように、机の上の冷めたお茶の湯気すら霞んで見えた。
やがて、所長が入室する。
「……始めてください」
所長の短い指示を受け、朝岡が一歩前に出た。
「皆さん。もうニュースなどで概要を知っている方もいると思いますが、改めて、今日の件について共有します」
手にした資料をそっと置き、目を上げる。
「本日午前、我々が担当していたケース“赤尾悠真くん”の母親・香澄さんによる、無理心中未遂事件が発生しました」
小さなどよめきが起きるが、すぐに静まる。
「対応にあたっていた佐原花音は、家庭訪問の際に異変を察知し、単独で踏み込みました。その場にいた母親の安否を確認し、救急通報を行った後、自身も一酸化炭素中毒で搬送されました」
朝岡の声は、努めて落ち着いていた。
「幸い、母親・香澄さんも命に別状はなく、悠真くんは無事に保護されました。佐原も意識を取り戻し、医師からは『短期入院』との診断を受けています」
一部の職員が安堵の息を漏らすが、その表情は決して明るいものではない。
「……佐原については、当面、現場復帰の予定は立てません。本人が“戻れる”と言ったとしても、まずは身体と心の両面での状態が整うまでは、業務には戻しません」
朝岡の目が、室内の全員を一人一人捉えるように動く。
「その後も、復帰は“後方業務”から。現場には段階的にです。あの子には、今は“守られるべき側”でいてもらいます」
小さく「そうだね……」という声が、女性職員の口元から漏れた。
そのとき、所長が静かに前に出た。
「……今回の件で、我々は一人の職員を“危険”に晒しました」
声は小さいが、よく通る声だった。
「どれだけマニュアルが整っていても、現場での判断は一瞬で、そのリスクを背負うのは、最後には“人”です」
所長は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
しばしの沈黙が広がる。
朝岡は、その言葉の重さに目を伏せながらも、胸の奥に灯る決意を噛みしめていた。
“これは他人事ではない。あの子の代わりは、どこにもいない”
そして、ふと自分の席へ目をやる。
今は空席となった佐原のデスクには、彼女が置いていった付箋とペンがそのまま残されていた。
いかにも几帳面に整理された机の上――そこだけが、事件の前と変わらない“日常”を装っていた。
でも皆が知っている。
あの静けさの裏には、命を賭けた一つの“踏み込み”があったことを。
そしてその意味を、決して風化させてはならないことを。