眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
夕方、署内が少しざわつく時間帯。

詰所の空気は、日中の緊張がようやくほぐれ始める頃合いで、コーヒーを淹れに立つ者や、机に突っ伏して小休止を取る者の姿もちらほら見え始めていた。

そんな中で、新田が椅子から腰を上げると、岡田の方へと静かに歩み寄った。

「岡田。おまえ、今朝の現場で何を感じた?」

岡田は一瞬きょとんとし、それから姿勢を正した。

「……何って、佐原さんの危機一髪っていうか、あと一歩遅れてたら……」

「そうだな。あれが“もう少し遅れてたら”って世界だったんだよ」

新田の声は淡々としていたが、その奥には確かな熱があった。

「この前の昼、おまえが“癒し”とか言ってた佐原さんな。あの人、死ぬ寸前だったんだぞ」

岡田はハッと息をのんだ。

「……もちろん、そんなつもりで言ったわけじゃ……」

「分かってる。俺もあのときは軽口だと思って聞いてた。でもな」

新田はそこで一拍、間を置いた。

「――これでもまだ、平和な現場が物足りねぇか?」

岡田は返す言葉を失って、口を噤んだ。

「見たろ。佐原さんのあの顔。あの部屋の空気。現実ってのは、想像以上にあっけなく終わることがある。人が、簡単に死ぬんだ。子どもも、女も、誰でもな」

言葉の端々が、まるで鉄板を打つように重く響く。

「俺たちは、その一歩手前で踏み止めるのが仕事だ。でもそれは、たまたま運が良かったじゃ済まない。準備して、動いて、悩んで、それでもギリギリなんだよ」

岡田はゆっくりと目を伏せ、ただ「……はい」とだけ答えた。

新田はその姿を見て、少し声を和らげた。

「おまえ、今回よく動いたよ。現場判断も悪くなかった。でもな、あの人が、現場で命懸けてるってことは、忘れるなよ」

岡田が顔を上げたとき、新田は静かに続けた。

「……そういう相手を見て“守りたい”って思えたら、ようやく一人前だ」

その言葉に、隣で書類をまとめていた早瀬がふと手を止め、無言で顔を上げる。

新田は気づいていた。
早瀬が今、あの場で誰よりも深くその意味を噛みしめていることを。

そして、わざと視線は送らずに、ぽつりと呟いた。

「――期待してるんだよ。おまえにも」

岡田は、何も言わずに深く頷いた。
言葉の代わりに、まるで背筋に一本芯が入ったように見えた。

その様子を、早瀬はただ静かに見つめていた。
かつて自分も、そうして教えられてきたように――今は、新田がその役目を岡田に手渡している。

弱く冷房の効いた詰所の空気は、少しだけ澄んでいた。
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