眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
土と汗まみれになった作業を終え、ようやく洗面所で手を洗って戻ると、甘い香りが鼻先をくすぐった。

リビングのテーブルの上には、母の得意な“ふわふわロールケーキ”が綺麗に切り分けられて並んでいた。

ココア生地のスポンジに、甘さ控えめのクリーム。
季節のイチゴが中にも外にもあしらわれている。

「ちょうどいいタイミングだったわ。疲れたでしょ?冷たい麦茶もあるから」

母はいつものように、手際よくカップに氷を入れながら、落ち着いた声で言った。

「……さっき、おばあちゃんのとこ行ってきたの?」

ロールケーキを口に運びかけた早瀬は、一瞬だけ動きを止めたが、すぐに頷いた。

「うん。毎年だからな。忘れないようにしてる」

「……そう」

母はそれ以上何も聞かなかった。
ただ、目元にほんの少しだけ、年齢の刻んだ陰影が浮かんだように見えた。

そして空気を変えるように、ふっと明るい声に切り替える。

「で、最近どう? 仕事は相変わらず忙しいの?」

「まあな。毎日が戦場だよ。特に最近は……」

そこまで言いかけて、やめた。
今、あの現場の話をする気にはなれなかった。
母に心配もかけたくなかった。

母もその空気を感じ取ったのか、いたずらっぽく口角を上げて言った。

「ねえ、彼女とかいないの?」

「は?」

「だってさ。お母さん、あなたが交番時代に拾ってきたミルクじゃもう満足できなくなってきたわけよ。ミルクは可愛いけどね、人間の嫁にはなれないからねぇ」

テーブルの下で、純白の毛並みをもつ猫――ミルクが「にゃあ」とタイミング良く鳴いた。

「……お前も今、タイミング合わせて鳴くなよ」

「ほんとに、もうそろそろ考えなさいよ。こんなに優しくて真面目で、お菓子作れるお母さんがついてる息子なんて、貴重なんだから。おまけにイケメン」

「それ、自分を褒めてるだけだろ」

「そうよ。でも事実でしょ?」

母は笑いながら、もう一切れケーキを皿に乗せた。

「いい人がいたら紹介してね、お母さんが面接するから」

「勘弁してくれ……」

早瀬は半ば呆れながらも、どこかほっとしていた。
静かな夕方、甘いケーキと家族の気安い会話。
非番の日にしか味わえない、柔らかな時間がそこにはあった。
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