眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
「――おはようございます」

出勤時間ぎりぎり、タイムカードを押す間際に、花音の肩を軽く叩く手があった。

「佐原さん、ちょっといい?」

振り向くと、当直明けの三宅千尋が、薄い笑みを浮かべていた。少し髪が乱れていて、徹夜明けの疲労が滲んでいる。

「はい、お疲れさまでした。何かありました?」

「ちょっとバタバタで……。三鷹のハイリスク案件、村橋さんの件、知ってるよね?」

「あの、2歳の……。夜間の徘徊の……?」

「そうそう。昨日、母親が自傷で救急搬送。保護先の手配で夜中までかかって、結局児童は一時保護。支援の主担当が急遽交代になったんだけど――その対応で夜間、職員全滅だったのよ」

「……まさか」

「うん。川野さんとこ。また通報、入ってた」

花音は瞬時に顔をこわばらせた。

「交番経由で、夜間に泣き声。でも、職員が誰も動けなくて。出動できませんでした」

「……」

「対応は、交番の渡辺さんって人が玄関前で声かけ。反応なし。児相への通告は済んでるから、アフターフォローお願いしたい。今日中に一度、家庭訪問かけられる?」

花音はしばし言葉を失った。
それは責任を押しつけられたとか、そういう感情ではない。ただ純粋に、行かなければという思いだけが心に浮かんでいた。

「……わかりました。午前中に動けるように、調整します」

「助かる。ほんとごめん、あの夜は他のハイリスクも重なってて、現場が火を噴いてたのよ」

「仕方ないです。緊急度の判断、間違ってないと思います」

花音はそう答えながらも、心の奥ではざわつくものがあった。
――結咲ちゃんは、どうしていたのだろう。
夜の家の中で、泣き声を上げて、それに応えられる人がいなかったということが、ただ胸に重くのしかかる。

「ありがとう。……ほんと、頼りにしてるから」

三宅が軽く頭を下げ、スタッフルームの奥に引き上げていく。

花音は自席に着き、パソコンを立ち上げる。
その手は自然と、川野美咲のファイルを開いていた。

――もう一度、会わなければ。
昨日、拒絶されたとしても。
昨夜の“声”は、それでも、届いていたのだから。
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