眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
退庁の打刻を済ませ、重たい鉄の扉を引いて外に出た瞬間、夜の空気が肌を撫でた。
街灯のオレンジが歩道を細く照らし、誰もいない道を、花音は静かに歩き出す。

スマートフォンに、同僚のグループチャットから一言。
「今日で最終出勤日だったみたい」。

それだけ。
退職の知らせにも、もはや驚きはなかった。

「また一人、辞めたんだ」

心の中で呟くと、夜道に足音だけが響いた。
冷たい風が、すっと頬をかすめていく。

ここに来て、もう二年。
大学院を卒業して、臨床心理士の資格を取って、迷わず児童相談所を志望した。

子どもの心に寄り添いたい――その思いだけで、ここまで来た。
だけど現実は、そんな理想を吸い込んでなお、飲み干してしまうほどに過酷だった。

通告は鳴り止まず、対応件数は増え続ける。
専門性より、速さと対応力が求められる。
会議、訪問、報告書。
終わりのないサイクル。

新しく入ってきた人たちは、最初こそ情熱を語っていた。
けれど、三年と持たずに辞めていく。

「やりがいはあるけど、短命な仕事だよ」

大学の先生の言葉を、ふと思い出す。
続けたければ、覚悟がいる。

どんなに努力しても報われるとは限らない。
守りたくても守れないときがある。
何かが変わるには、何年もかかる。

「一人前になるには十年かかる。多くの人が志はあっても、モノにならない。それでも良いなら、やってみればいい」

あの言葉が、今になって胸に染みる。

ふと立ち止まって、空を見上げた。
街の灯にかき消されて、星は見えなかった。

でも、どこか遠くに、灯っているような気がした。

辞める理由なんて、数えきれないほどある。
でも――続ける理由は、たった一つでいい。

守りたいと思った、あの子の涙。

コートの襟を少しだけ上げる。
歩き出した足に、少しだけ力が戻る。

夜道の先にある光が、本物かどうかなんて、今はわからない。
それでも、進むしかない。
彼女はそれを、知っている。
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