眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
フロントガラスの向こう、街路樹がぼんやりと揺れていた。
春の終わり、夜風はぬるいのに、なぜか肌寒く感じる。
覆面パトカーのエンジン音が低く響くなか、早瀬匠(はやせたくみ)は助手席でPSI(警察活動支援システム)の画面を指でなぞっていた。
杉並区桃栄(とうえい)一丁目。
「赤ん坊の泣き声が止まらない」という110番通報が入ったのは、23時31分。
現着した近隣の交番員がインターフォン越しに声をかけたが、応答なし。
階上の住民によると、泣き声は昼夜問わず、ここ数日とくに激しくなっていたという。
通報内容から「育児放棄の可能性あり」と判断され、生活安全課にも出動が回ってきた。
「……やっぱり、児相の対応履歴があるな」
早瀬は、画面に映し出された通報履歴を確認しながら呟いた。
「去年の11月、母親の実家に一時避難。その後、再び同じアパートに戻ってきてる。対応記録は……“保護不要”か」
「出たよ、“とりあえず書類”のパターンだな」
運転席の新田誠吾(にったせいご)警部が、鼻を鳴らした。
45歳。現場経験豊富で、生活安全課では“おやっさん”的存在だ。
「児相ってのはな、動かねえ理由を見つけるプロなんだよ。書類に”本人に反省の様子あり”とか書いて、はい終了。で、また通報が来る。もう何回目だよって話」
「……でも、今夜は明らかに様子がおかしい。近所の人が、『泣き声が前より弱くなった』って通報してる」
「一番嫌なパターンだな」
新田が口をへの字に曲げる。
カーステレオの電源は切ってある。
誰も何も話さない時間が、車内に流れる。
外の街並みは、ほとんど眠っていた。
コンビニの前に学生が一人座り込んで、スマホを眺めている。
マンションの明かりがところどころ落ちて、静かな春の夜に溶けていた。
パトカーの時計が23時57分を示す頃、桃栄一丁目のアパートが見えてきた。
二階建ての古い木造。
階段脇の電灯は切れていて、暗闇にぽっかりと口を開けている。
「ここだ」
新田がライトを消し、ブレーキを踏んだ。
車を降りると、すぐに現場の交番員が小走りで近づいてくる。
「すみません、お疲れ様です。応答なしです。チャイム押しても音沙汰なし。
泣き声、さっきまでしてたんですが、今は……もう聞こえません」
早瀬は黙って頷くと、再度、アパートの二階を見上げた。
明かりのついていない窓、カーテンの奥に、何があるのか。
児童相談所の対応が遅かったのか、それとも何も起きていないのか――
今はまだ、どちらとも言えなかった。
ただ、何度もこのパターンを見てきた。
“何か起きた後”に、誰かがようやく動く。
だから、間に合ってほしいと願う。
いつも、それだけだった。
春の終わり、夜風はぬるいのに、なぜか肌寒く感じる。
覆面パトカーのエンジン音が低く響くなか、早瀬匠(はやせたくみ)は助手席でPSI(警察活動支援システム)の画面を指でなぞっていた。
杉並区桃栄(とうえい)一丁目。
「赤ん坊の泣き声が止まらない」という110番通報が入ったのは、23時31分。
現着した近隣の交番員がインターフォン越しに声をかけたが、応答なし。
階上の住民によると、泣き声は昼夜問わず、ここ数日とくに激しくなっていたという。
通報内容から「育児放棄の可能性あり」と判断され、生活安全課にも出動が回ってきた。
「……やっぱり、児相の対応履歴があるな」
早瀬は、画面に映し出された通報履歴を確認しながら呟いた。
「去年の11月、母親の実家に一時避難。その後、再び同じアパートに戻ってきてる。対応記録は……“保護不要”か」
「出たよ、“とりあえず書類”のパターンだな」
運転席の新田誠吾(にったせいご)警部が、鼻を鳴らした。
45歳。現場経験豊富で、生活安全課では“おやっさん”的存在だ。
「児相ってのはな、動かねえ理由を見つけるプロなんだよ。書類に”本人に反省の様子あり”とか書いて、はい終了。で、また通報が来る。もう何回目だよって話」
「……でも、今夜は明らかに様子がおかしい。近所の人が、『泣き声が前より弱くなった』って通報してる」
「一番嫌なパターンだな」
新田が口をへの字に曲げる。
カーステレオの電源は切ってある。
誰も何も話さない時間が、車内に流れる。
外の街並みは、ほとんど眠っていた。
コンビニの前に学生が一人座り込んで、スマホを眺めている。
マンションの明かりがところどころ落ちて、静かな春の夜に溶けていた。
パトカーの時計が23時57分を示す頃、桃栄一丁目のアパートが見えてきた。
二階建ての古い木造。
階段脇の電灯は切れていて、暗闇にぽっかりと口を開けている。
「ここだ」
新田がライトを消し、ブレーキを踏んだ。
車を降りると、すぐに現場の交番員が小走りで近づいてくる。
「すみません、お疲れ様です。応答なしです。チャイム押しても音沙汰なし。
泣き声、さっきまでしてたんですが、今は……もう聞こえません」
早瀬は黙って頷くと、再度、アパートの二階を見上げた。
明かりのついていない窓、カーテンの奥に、何があるのか。
児童相談所の対応が遅かったのか、それとも何も起きていないのか――
今はまだ、どちらとも言えなかった。
ただ、何度もこのパターンを見てきた。
“何か起きた後”に、誰かがようやく動く。
だから、間に合ってほしいと願う。
いつも、それだけだった。