眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
「なあ……お前みたいなやつ、俺に捨てられたら誰も気にしねぇよ?」

男の声は、乾いた笑いとともに冷たく響く。
その目に宿るのは、怒りというより支配欲と嘲り。

「ほんっと、いつまでも生意気だよなぁ……」

美咲の肩がびくんと揺れた。
怯えが怒りに変わるのは、一瞬だった。

「うるさい! うるさいうるさい!!」

絶叫するような声を上げて、美咲は男の胸を両手で押し返す。
男は一歩、たじろいだが、すぐにその顔が豹変した。

「うるせえんだよ!!」

男の怒号が、部屋の空気を引き裂いた。
その瞬間、結咲ちゃんが悲鳴のような泣き声を上げる。

「まま! ままーー!!」

花音は、母親の混乱に反応して泣き叫ぶ子どもをなんとか安心させようと、腕を伸ばした。

「大丈夫、結咲ちゃん、大丈夫……」

けれど、花音の言葉はかき消される。
怒声。泣き声。混乱。

「落ち着いてください! 大きな声を出さないで!」

花音は精一杯の声で、男と美咲に呼びかけた。
しかしその言葉が、男の逆鱗に触れたようだった。

「……そういうの、ムカつくんだよなあ。」

男の目が細まり、声のトーンが逆に落ちる。

「役所のやつってさぁ、自分が何でもわかってるみたいな顔してよ。」

彼はジリジリと花音に近づいてくる。
足音すら重く感じるほどの、圧。

花音は無意識に後ずさる。背中に、ソファの肘掛けが触れた。

もう、これ以上は下がれない。

男の手があがる、その瞬間——

「やめて!!」

美咲が男の腕を引き戻そうと、勢いよく後ろからつかんだ。

「おい、放せよ!」

男が振り向きざまに、美咲の腕を振り払う。
腕ではなく、ほとんど叩きつけるように。

花音は思わず声をあげた。

「やめてください!」

咄嗟に間に入ろうとした花音に、男が振り返り、怒号とともに腕を振るった。

「邪魔なんだよ! お前!!」

次の瞬間、強い衝撃が胸元を打ちつけ、視界が一瞬傾いた。
バランスを崩した花音の足が、家具の角を踏み外す。

ぐきっという嫌な音。

「……っ!」

右足首に、鋭い、刺すような痛みが走った。

花音は倒れ込むように床に手をつき、息を呑んだ。
一瞬、視界がにじんだ気がした。

痛みの向こうで、結咲ちゃんの泣き声がさらに激しくなる。
「まま! こわい! ままーー!」

混乱のただ中で、花音の理性だけが冷静に叫んでいた。

——これは、もう限界だ。

——この場は、保護対象が明確に存在している。

通報。保護。介入。

花音の手が、震えながらもスマートフォンを握りしめる。

親の同意は、もう必要ない。
これは、子どもの生命と心身の安全に対する明確な危機。

花音は、警察の番号を、迷いなく押した。
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