眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。

痛みの構造式

午後。
通知で新刊が入ったと知った花音は、タクシーで図書館へ向かった。
心理支援やリスクアセスメント技法に関する専門書——ずっと気になっていた分野の更新だった。

家にいても、どうしても川野家のことが頭を離れなかった。
考えすぎるのは良くない——自分のメンタルのためにも、少し視点を変えたほうがいい。

セルフヘルプも兼ねて、静かな空間でゆっくり本を読もう。
そう思っての外出だった。

図書館の専門資料エリアで、分厚い事例集を手に取る。
そこには、実際の支援事例がいくつも紹介されていた。

家庭内暴力やネグレクトを経験した子どもが、児童養護施設を経て、社会に出て、恋愛をし、結婚して、親になって、笑って過ごしている。

あるいは、家族関係の崩壊から一度は引き離された親子が、支援を受けながら再び向き合い、少しずつ関係を築き直していった例。

どれも奇跡のような物語だった。
でもその一方で、救われなかった家族たちが、文字の行間に沈んでいるのがわかる。

「結婚」や「子ども」という存在は、幸せが実体化したもののように語られることがある。

でも——それは単なる“イメージ”だ。
現実には、幸せになれる人もいれば、そうでない人もいる。
そしてその狭間で、いつも一番に犠牲になるのは、子どもたちだった。

もちろん、母親たちがすべて“加害者”だったわけではない。
むしろ、彼女たち自身がかつて“被害者”だったケースを、花音は数えきれないほど見てきた。

養育歴、経済的困窮、トラウマ、孤独——
未解決の葛藤を抱えたまま、子どもを育てようとして、でもうまくいかない。

切り捨てられるべきは“加害”だけど、その人間ごと否定することはできない。

それでも、世間はこう言う。
「なんで子どもと引き離さなかったんだ」

その言葉を聞くたび、心が冷える。
自分の下した判断は、果たして“正しかった”のか?

保護措置の決定は、親子の将来にとって、本当に最善だったのか?

出口の見えない迷路のような問いが、静かな図書館の中で静かに頭を満たしていく。

——私はきっと、結婚とか、子どもとか、ないだろうな。

そう思う自分が、もう内面に自然と根を張っていることに、ふと気づく。

花音にとって、“家族”とは、喜びではなく苦しみの象徴だった。

世間が描く幸せの形が、自分にとっては痛みの構造式に変わってしまっていた。

学校にちゃんと通えたこと、両親に育ててもらったこと——
そんな“普通”は、ただの偶然にすぎない。
ほんの少し、生まれた場所や親が違えば、今頃きっと私は——

自分の子どもを、傷つける母親だったかもしれない。

そう思ったとき、胸の奥に、痛みとも言えない淡い悲しみが広がった。
誰もが、誰かになり得る。
それがこの仕事の、一番怖くて、一番優しい本質なのかもしれない。
< 51 / 247 >

この作品をシェア

pagetop