眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
杉並警察署・生活安全課 定例会議室

午前九時。生活安全課の会議室には、課員十数名が揃っていた。
テーブルに広げられた資料の表紙には「川野結咲 保護事案」と印字されている。

ファイルを手にした課長の伊藤が、静かに口を開いた。

「まず、川野結咲ちゃんに関する今回の対応について、簡潔に振り返る。
……5月28日、家庭内トラブルに関する通報が入り、署員が現場に急行。
児童相談所の佐原職員も同時に家庭訪問中だった。
状況は……ご存じの通り、母親の交際相手・早苗雄貴が突然介入、佐原職員が突き飛ばされる形で負傷」

ざわ……と空気が揺れる。
事件性こそ薄かったものの、児相職員が現場で被害に遭うというのは、日常的な話ではない。

伊藤は話を続けた。

「早苗については署での事情聴取を経て、今回の件は傷害未遂としての立件には至らず。
警告対応に留めた。
ただし、今後再接近した場合は即通報、保護措置含めて対応できるよう、母親本人にも説明済み」

一人の男性巡査が手を挙げた。

「課長、結咲ちゃんの保護は継続されるんですか?」

伊藤が苦い表情で首を振る。

「……いや。児相の方針で、あさってには家庭復帰予定だ」

「……は?」

思わず漏れた数人の声。
会議室の空気が、微かにざらついた。

後方に座っていた若手警察官が低い声でつぶやく。

「さすがに早すぎませんか。暴力の目撃もしてるんですよ? 子どもにとっての安全な環境って、どう判断されてるんですか」

伊藤はため息をつきながら応じる。

「……現場の感覚としてはわかる。だが、児相の内部では“交際相手との同居がない”という一点が大きく、母親が入院後に落ち着いている点、今後の通院・支援計画も整っているということで“家庭再統合の方向で進める”と判断されたらしい」

別の女性警官が言う。

「でも、その“整ってる”って、結局、母親が“やります”って言っただけじゃないですか? 実際にどこまで実行されるかは分からないのに……」

伊藤は机を軽く叩き、話を戻す。

「……だからこそ、我々ができるのは“次”に備えることだ。今回の件を踏まえ、川野家に関する通報・通報履歴は今後、すべて佐原さんに共有するよう徹底する。現場に出るのは彼女ひとりのこともある。最低限の情報は持たせるべきだ」

頷きが広がる。

「併せて、保育所・保健師・支援機関とも連携強化を。母親の様子に異変があれば、どのラインからでも情報が上がるようルートを複数確保しておくこと。子どもの命が懸かってる。情報の“間”が命取りになる」

静寂のなか、全員が真剣な面持ちで頷いた。

そして最後に、伊藤はこう締めくくった。

「……今回、誰も命を落とさなかったのは本当に運が良かっただけだ。今度同じような事案が起きたとき、そうは限らない。警察と児相は、決して別々の組織じゃない。連携できるところは、もう一段階深めていこう。以上」
< 55 / 247 >

この作品をシェア

pagetop