眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
午後、早瀬は書類整理をしていた手を止め、ふと深く息をついた。
窓の外では、夏の陽射しがじりじりとアスファルトを焼いている。
だが、胸の内には妙に冷えた感情が残っていた。

(……本当に、あれでいいんだろうか)

川野家の件。
交際相手の早苗雄貴は、注意喚起のみ。
接見禁止命令もなく、母親の言葉を信じるという“善意の前提”で制度は進んでいく。

佐原は――確かに軽傷だった。だが、それは“結果的に”だ。

(もしあのとき、もっと強く頭を打っていたら?
もし子どもに手が出ていたら?
……そうなってからじゃ遅いんだよ)

言葉にはならない苛立ちが、じわじわと背中にこびりつく。

制度は“事件が起きたあと”に対応するようにできている。
「未然に防ぐ」は理想論で、それを支える法も仕組みも、いつもどこかで綻んでいる。

(……今回、児相も無理をしたんだろう。現場職員の佐原さんがあんな目に遭ってまで、家庭の再建を信じようとした。わかる。わかるけど――)

心のどこかで引っかかっているのは、佐原が謝ったことだった。

《本当に、ご迷惑をおかけしました》

あのとき、自分は「当たり前のことです」と答えた。
だが、心の奥では釈然としなかった。

(なんで、怪我をした人が謝らなきゃならないんだ。
なぜ、あんな無防備な環境で、彼女ひとりが子どもと親の間に立たなきゃいけなかった)

警察として、できることはやっている――そう言い聞かせても、どこか虚しい。
現場に届かない仕組み。
感情と行動の間にある、法という“枠”の冷たさ。

そして、その枠のなかで、何かを飲み込みながら立ち続けている人間がいる。

佐原花音。

(あんなふうに、冷静に。毅然とした態度で。
それでも、自分の落ち度として受け止めてしまう。……どこまで、責任を背負うつもりなんだ)

その背負い方が、苦しくて見ていられなかった。

(もっと俺たちが、守らなきゃいけなかったのは――)

早瀬はデスクに肘をつき、目を閉じた。

冷房の効いた執務室でも、うっすらと汗ばむほどに、胸の内には苛立ちが残っていた。

(この制度の限界が、いつかあの子を、あの人を、壊すかもしれない。
でも、それを理由に見て見ぬふりは……もう、できない)

ふと、誰にも聞かれないように小さくつぶやいた。

「……次は、絶対に間に合わせる」

それが警察官としての責任なのか、それとも個人的な感情なのか――
早瀬自身も、まだ言葉にできないままだった。
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