眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
杉並区桃栄一丁目に差しかかった時、スマートフォンの発信履歴を一つ終えたばかりだった。
「……はい、先に警察の方が現場確認されています。そちらからも児相に要請が入ったとのこと、承知しました。現場到着次第、また連絡します」
通信を切ると、窓の外に暗い二階建てのアパートが見えた。
23時57分。
ほぼ同時刻に警察が現着していると聞いていたが、到着した瞬間、敷地の端に停まった覆面パトカーの存在に気づいた。
(警察、すでに動いてる……)
重い書類鞄を抱えながら、アパートの階段を駆け上がる。
深夜の住宅街に、足音がやけに響いた。
二階の共用廊下に上がると、すでに警察官が2人、玄関前に立っていた。
そのうちの若い方――鋭い目をした男性がこちらを振り返る。
視線が一瞬絡む。
「児童相談所の佐原です。すみません、遅くなりました」
「杉並署、生活安全課の早瀬です。今、保護者に声かけをしてるところです」
「……泣き声は?」
「さっきまであったようですが、今は……止まってます」
早瀬の言葉に、花音は小さく頷いた。
玄関のチャイムを押すと、数秒してドアの向こうから音がした。
チェーン越しに、女性の声が返ってくる。
「……もう寝てます。こんな時間に何なの……? なんで毎回、警察とか児相とか……」
「こちら杉並児童相談所です。赤ちゃんの安全確認のため、少しだけお話をさせてください」
「見せる必要ないですよね? ちゃんとご飯もオムツもやってます」
(……典型的な“軽拒否”)
花音は内心でそう判断した。
一応対応するが、子どもには会わせず、「今問題ない」の一点張り。
そして最終的に、玄関の内側から静かに鍵がかかる。
「……拒否されましたか」
隣に立っていた早瀬が訊く。
その視線には、どこか冷ややかな色がにじんでいた。
「はい。児童と面会できませんでした」
「……じゃあ、臨検(※)で入るしかないんじゃないんですか?」
※〔注:臨検=児童福祉法に基づき、保護者の同意なしで子どもの安全確認のために家庭に立ち入る措置〕
花音は、一瞬だけ視線を落とした。
「……臨検は、原則として、緊急性と明確な危険性があると判断された場合のみです。
赤ちゃんの泣き声は止んでいますし、拒否の程度も軽い。今の段階で踏み切るのは……困難です」
「それで、次また通報が来たら……?」
早瀬の問いは、責めではなかった。
ただ、現場の現実を知る者の口調だった。
花音は答えなかった。
いや――答えられなかった。
臨検には上司の判断、法的根拠、訪問記録、地域との調整、医師や弁護士の協力……
いくつもの“山”を越える必要がある。
しかも深夜、単独対応の現場では、すべてを揃えることはできない。
「……明日、日中に改めて家庭訪問を調整します。
近隣住民の聞き取りも行います。報告書は今夜中に送りますので、そちらにも共有します」
業務用端末を操作しながらそう言うと、花音はひとつ、深呼吸した。
(本当は、今すぐ確認したい。赤ちゃんの顔が見たい。安全を確かめたい)
でも、それが許されない。
児童相談所は「子どもを守る最後の砦」と言われながら、現場では、砦にすら入れないことがある。
早瀬の目が何かを言いたげに動いた。
その瞳を正面から見返すことは、できなかった。
「……すみません、失礼します」
鞄を持ち直し、階段を降りた。
背中に、警察官の視線を感じながら。
「……はい、先に警察の方が現場確認されています。そちらからも児相に要請が入ったとのこと、承知しました。現場到着次第、また連絡します」
通信を切ると、窓の外に暗い二階建てのアパートが見えた。
23時57分。
ほぼ同時刻に警察が現着していると聞いていたが、到着した瞬間、敷地の端に停まった覆面パトカーの存在に気づいた。
(警察、すでに動いてる……)
重い書類鞄を抱えながら、アパートの階段を駆け上がる。
深夜の住宅街に、足音がやけに響いた。
二階の共用廊下に上がると、すでに警察官が2人、玄関前に立っていた。
そのうちの若い方――鋭い目をした男性がこちらを振り返る。
視線が一瞬絡む。
「児童相談所の佐原です。すみません、遅くなりました」
「杉並署、生活安全課の早瀬です。今、保護者に声かけをしてるところです」
「……泣き声は?」
「さっきまであったようですが、今は……止まってます」
早瀬の言葉に、花音は小さく頷いた。
玄関のチャイムを押すと、数秒してドアの向こうから音がした。
チェーン越しに、女性の声が返ってくる。
「……もう寝てます。こんな時間に何なの……? なんで毎回、警察とか児相とか……」
「こちら杉並児童相談所です。赤ちゃんの安全確認のため、少しだけお話をさせてください」
「見せる必要ないですよね? ちゃんとご飯もオムツもやってます」
(……典型的な“軽拒否”)
花音は内心でそう判断した。
一応対応するが、子どもには会わせず、「今問題ない」の一点張り。
そして最終的に、玄関の内側から静かに鍵がかかる。
「……拒否されましたか」
隣に立っていた早瀬が訊く。
その視線には、どこか冷ややかな色がにじんでいた。
「はい。児童と面会できませんでした」
「……じゃあ、臨検(※)で入るしかないんじゃないんですか?」
※〔注:臨検=児童福祉法に基づき、保護者の同意なしで子どもの安全確認のために家庭に立ち入る措置〕
花音は、一瞬だけ視線を落とした。
「……臨検は、原則として、緊急性と明確な危険性があると判断された場合のみです。
赤ちゃんの泣き声は止んでいますし、拒否の程度も軽い。今の段階で踏み切るのは……困難です」
「それで、次また通報が来たら……?」
早瀬の問いは、責めではなかった。
ただ、現場の現実を知る者の口調だった。
花音は答えなかった。
いや――答えられなかった。
臨検には上司の判断、法的根拠、訪問記録、地域との調整、医師や弁護士の協力……
いくつもの“山”を越える必要がある。
しかも深夜、単独対応の現場では、すべてを揃えることはできない。
「……明日、日中に改めて家庭訪問を調整します。
近隣住民の聞き取りも行います。報告書は今夜中に送りますので、そちらにも共有します」
業務用端末を操作しながらそう言うと、花音はひとつ、深呼吸した。
(本当は、今すぐ確認したい。赤ちゃんの顔が見たい。安全を確かめたい)
でも、それが許されない。
児童相談所は「子どもを守る最後の砦」と言われながら、現場では、砦にすら入れないことがある。
早瀬の目が何かを言いたげに動いた。
その瞳を正面から見返すことは、できなかった。
「……すみません、失礼します」
鞄を持ち直し、階段を降りた。
背中に、警察官の視線を感じながら。