眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
ハンドルを握る指先に、じんわりと力がこもっていた。

エンジンの音がかすかに震え、フロントガラスの向こうに、深夜の街が流れていく。
杉並児童相談所までは、あと10分ほど。
けれどこの帰路は、時に一時間にも感じる。

頭の中に焼きついたのは、玄関前でのあの数分。
そして、あの警察官の目だ。

(……また、ああいう目で見られた)

失望とも苛立ちともつかない、あの無言の視線。
“なぜ踏み込まないんだ”という問いが、背中に貼りついたまま離れない。

もちろん、わかっている。
彼らは彼らで、子どもを守るために必死だ。
緊急性の高い事案に対応するのは、生活安全課の重要な任務のひとつ。

だからこそ、児童相談所の対応が歯がゆく見えるのだろう。

(わたしだって――同じ思いだよ)

あの赤ちゃんが、泣き止んだ理由が「寝たから」だと信じたい。
でも、もし「声を出す元気がなくなったから」だったとしたら。

想像すれば、心臓がきゅっと掴まれる。

(それでも、あの場で臨検は……無理だった)

法律は、感情を基準に動いてはくれない。
児童福祉法では、児相職員が家庭に立ち入れるのは、あくまで“保護者の同意”が前提。
それが拒否された場合、臨検を行うには“子どもが明らかに危険に晒されている”という証拠と、組織としての決裁、外部機関との調整が必要だ。

“泣き声”だけでは、動かせない。

(証拠は……不十分)

何度も、そう自分に言い聞かせる。
でも、その言葉が慰めになることはない。

ここまでの二年で、何度同じような夜を越えてきただろう。
泣き声、あざ、沈黙、不自然な拒否。
そのたびに、警察官や学校職員の目が、「今すぐなんとかして」と訴えていた。

(そのたびに、わたしは制度の壁にぶつかってきた)

それは自分の無力さを見せつけられる瞬間であり、
「子どもを守る砦」の看板が嘘になる瞬間でもある。

(本当は、わたしだって動きたいんだ)

あの家の玄関を開けて、赤ちゃんの顔をこの目で確かめたい。
あたたかい布団で眠っているか、ミルクは飲めているか――それを知りたい。

けれど、それを「したい」と思うだけでは届かない。
私たちは“そう思うだけでは動けないようにできている”。

それが、児童相談所という場所だった。

(こんなの、誰だって長くは続けられないよね……)

今夜もまた、誰かの退職のチャットが頭をよぎる。
理解されないまま、制度の中で押し潰されて去っていった先輩たち。
あの人たちは、今日の自分を見て、何を思うだろう。

ハンドルを切って、児相の建物が見えてきた。
窓はすべて閉じられ、灯りはない。
けれど、中には当直の職員がいて、夜通しメールや報告書を読み続けているはずだ。

(せめて、明日の再訪問の段取りだけは、完璧に)

できることは限られている。
それでも、できることはある――その小さな差に、意味があると信じていたい。

車を駐車スペースに止めた瞬間、全身の力が抜けた。
花音はしばらく、シートにもたれたまま、目を閉じた。

守りたい。でも守れない。
動きたい。でも動けない。

その狭間に、今日もまた、ひとつ夜が落ちていく。
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