眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
杉並署前の歩道は、人通りがまばらだった。
花音と早瀬は、無言のまま数歩並んで歩く。
夜風が頬を撫で、昼間の蒸し暑さが少しだけ和らいでいるようだった。

「すみません、こんな時間に呼び出してしまって」

口を開いた早瀬に、花音は小さく首を振る。

「いえ。あの件、私も気になっていたので。呼んでもらえてよかったです」

自然と声が柔らかくなるのが、自分でもわかった。

早瀬は花音の足元に一瞬視線を落とし、ためらうように尋ねる。

「足……もう大丈夫ですか?」

「あ、ええ。おかげさまで。まだ正座はできないですけど、日常生活には支障ないです」

「よかった。……あのとき、自分がもっと早く動けてたらって、ちょっと引きずってました。すみません」

「それは……私の立場でも同じですよ。もっと早く危険に気づけていたらって。結局、現場って結果論になりがちですから」

そう言って、ふっと息をついた。
責任を感じていたのは自分だけじゃない。そう思えるだけで、少し心が軽くなった気がした。

「でも、こうして普通に話せるのは、ありがたいことですね」

早瀬は、わずかに口元をゆるめて笑う。

「……佐原さんって、もっと壁が厚い人かと思ってました」

「え、どういう意味ですか?」

「いや、最初に会ったとき。どこにも隙がないっていうか、近づくなオーラがすごかった」

思わず花音は笑い声を漏らした。

「それ、職業病かもしれません。こっちも、警察の人ってもっと……壁打ちみたいな人かと」

「お互い、先入観がすごいですね」

「ほんとに」

自然と笑いがこぼれ、緊張の糸がほどけていくのがわかった。

そのまま話題は仕事の枠を超え、少しずつ日常の話へと移っていった。

「そういえば、早瀬さんって、お休みの日って何してるんですか? やっぱり鍛えてます?」

「まあ、それもあるけど……最近は実家から送られてくる野菜の処理に追われてます。親父が家庭菜園にハマってて」

「え、意外。家庭的なんですね」

「いや、全然。茹でるか焼くか冷凍するか。手際だけはいいですけど」

「私は……図書館行って、本読んで、コーヒー飲んで帰るくらいですね」

「インドア派だ」

「子どもを守るには、まず自分を整えるところからですから」

「……真面目だなあ」

「それ、褒めてます?」

「もちろん」

ふたたび、笑い合う。
歩道を吹き抜ける夜風が、ほんの少しだけ肌に心地よかった。

──こんなふうに笑うの、いつぶりだろう。

そう思った自分に、花音はふと戸惑う。
この時間が心地いいと感じてしまうこと自体、どこかでブレーキをかけていた心が少しだけ緩んでいる証だった。

まだ何かが始まったわけじゃない。
けれど、この数十分で、少しだけお互いの輪郭がやわらかくなった気がした。

それが“何か”に変わるには──もう少し、時間が必要だ。
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