眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
パトカーのドアを閉める音が、夜の静寂を揺らした。
佐原花音の乗った車が角を曲がり、尾灯の赤が消えていく。

現場には、再び静けさが戻った。
さっきまで続いていた、赤ん坊の泣き声ももう聞こえない。

「……これで、結局“終了”ですか」

交番勤務の若い警察官――佐久間がぽつりと呟いた。
彼の目は、まだあの二階の部屋の窓を見上げている。

「通報内容、あれだけ緊急性高かったのに、ですよ」

早瀬は返す言葉を探したが、何も出てこなかった。
代わりに隣から聞こえたのは、新田のため息混じりの声だった。

「……まぁ、いつものことだ」

決して彼は責める口調ではなかった。
けれど、その一言には、積み重なった諦めが滲んでいた。

「“児相が判断したから”って、こっちは引くしかないんだよな。こっちは家宅捜索でも職質でも、少なくとも“疑わしきに対して動く”訓練はしてきてる。でも、児童相談所は違う。あれは“確証がなきゃ動けない”世界だからな」

「でも、赤ちゃんの泣き声、尋常じゃなかったですよ。通報主の話も一致してるし、何かあるって思って動いたのに……結局、引き下がるしかないんですか?」

佐久間の声には、怒りと無力感が入り混じっていた。

早瀬はそっと首元を指でこすりながら、言葉を選んだ。

「……俺たちは、職務質問なら即時にできる。家に踏み込むにしても、立件の見込みがあるなら、令状取って動ける。でも、児相は“福祉の視点”で動いてるからな。刑事事件とは全然別のロジックなんだろう」

「それで守れるんですか? 子どもを」

静かに、でも鋭く投げられた佐久間の言葉に、一瞬、誰も答えられなかった。

沈黙の中、アパートの二階の部屋がまだ灯っているのが見えた。
カーテンの隙間は閉ざされたまま。人の気配は感じられない。

「……赤ん坊が無事ならいい、って? 本気でそう思えるか?」

新田の低い声が、夜風に紛れて聞こえた。

「何も起きなきゃ、対応は“適切だった”ってことになる。起きたら“なぜ踏み込まなかった”になる。でも、あの職員だって、それがわかってるから……余計に動けねぇんだろうな」

「皮肉な話ですね」

佐久間の呟きは、もはや誰に向けたものでもなかった。

早瀬は腕時計を見る。
時刻は0時43分。
日付が変わっても、気持ちは切り替わらない。

(……結局、また“明日”に送られるのか)

“明日”のその子が、今日と同じ状態である保証はない。
でも、そうとしかできない――そういう現場が、現実だった。

「……一応、念のため明日の午前、もう一度このアパートの様子を見に来てみます。休憩時間、ずらして動けるようにしておきます」

早瀬のその言葉に、新田が少しだけ目を細めた。

「悪いな。お前、こういうの、放っとけない性分だもんな」

早瀬は、苦笑で返すしかなかった。

背後で、佐久間が小さく呟く。

「“放置”って言葉が、一番嫌いなんですよ、俺。誰かがそうしてるわけじゃなくても、結果的に放置になってるってのが……いちばんタチ悪い」

アパートの明かりはまだ消えない。

夜は静かだが――この静けさが、本当に“無事”を意味するのかは、誰にもわからない。
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