眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
部屋に帰ると、ふいに静寂が身に沁みた。

一人暮らしの部屋は、いつもと変わらず無機質で、ただ淡々と時間が流れていく。
ソファに沈み込むと、背中から重力が抜けていくような感覚に包まれた。

佐原花音の声が、ふと耳の奥で蘇る。
仕事と恋愛を切り分けようとする、その慎重な口ぶり。
まるで、自分の感情に境界線を引いて、壊れないよう守っているみたいだった。

「……怖いんだろうな」

心の奥底に、小さく呟いた。
理解できる。
痛みの先にあるのは、ただの“恐怖”じゃない。
過去に触れたくない、でも忘れられない、自分を縛る鎖みたいなものだ。

思い出す名前がある。

――孝介。

よく笑って、よく遊んで、何も疑うことのなかった、ただの友達。
幼い頃、あんなに近くにいた命が、あの日突然、テレビの中の「ニュース」になった。

アパートの一室で発見された、小さな遺体。
育児に追い詰められた母親が心中を図り、孝介だけが帰らぬ人となった。

その時、早瀬は何もできなかった。
報道を見て名前を聞いた瞬間、目の前が真っ白になったのを覚えている。
涙も出なかった。ただ、立ち尽くしていた。

――どうして、あんなことが起きたのか。

――誰も、止められなかったのか。

その答えを探すように、彼はこの仕事を選んだ。

「こんなことが、起きないようにしたい」

ただ、その一心でここまで来た。

だけど。

守ろうとすることは、時に“自分を削る”ことでもある。
無理をして、自分を置き去りにして、それでも「正しくあろう」とすればするほど、壊れていくのはむしろ自分のほうだった。

それでも、早瀬は思う。

「……自己犠牲なんかじゃ、誰も守れない」

自分を大切にすること。
ちゃんと食べて、ちゃんと笑って、少しは心を緩めて――
そんな風にして初めて、本当に誰かを守れるんじゃないかって。

今日、佐原と並んで歩いた夜道の空気が、思いのほか心地よかったこと。
彼女が猫の写真を見せてくれて、照れくさそうに笑ったこと。
その一つ一つが、妙に温かく胸に残っていた。

「……いつか、言えるといいな」

守るべきなのは、命だけじゃない。
その人が、その人らしく生きていけること。
悲しみだけを見せないように、少しずつ前を向けるように。

彼女にも、きっとそれが必要なんだろう。

夜は静かだったが、早瀬の中には、静かで確かな熱が灯っていた。
あの春の日の後悔が、今も彼を突き動かしていた。
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