眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
朝、8時45分。
児童相談所の執務フロアに、花音は静かに足を踏み入れた。
コピー機の音。電話のコール音。
朝の光がブラインド越しに差し込む中で、今日もまた「いつも通りの一日」が始まっていた。
けれど、胸の奥では、まだ昨夜の冷たい風が残っている。
花音は鞄をロッカーにしまい、スーツのジャケットを整えると、真っ先に班長席へと向かった。
朝岡係長――生活支援班の統括を務める40代半ばの女性。
淡々とした語り口と、判断の正確さに定評がある人物で、花音が密かに信頼を寄せている上司だった。
係長席にはすでに彼女が着席しており、朝の確認書類に目を通している最中だった。
「おはようございます。川野結咲(かわのゆうさ)ちゃんの件で報告があります」
朝岡は、手元の資料にしおりを挟んで顔を上げる。
「昨夜23時57分、杉並区桃栄一丁目のアパートにて、赤ちゃんの泣き声に関する通報が警察に入りました。既に交番員が現着していましたが、住人から応答がなく、警察の要請を受けて、私も現地へ向かいました」
花音は落ち着いた声で、要点を整理しながら報告する。
目の前にあるのは、臨時対応の記録メモと、前回のリスク評価表のコピーだ。
「対象児童は、川野結咲ちゃん、一歳5か月。昨年11月に匿名通告があり、育児放棄の可能性があった件で、当所が一度介入しています。その後の支援継続中でした」
「昨夜は警察官立ち合いのもと、私から立ち入り調査を求めましたが、保護者――実母の川野美咲さんが拒否。児童との面会が叶わず、臨検の打診を受けましたが、現時点では緊急性・証拠の両面から不十分と判断し、見送っています」
花音の言葉に、朝岡係長はうなずくと、静かに腕を組んだ。
「……そう。妥当な判断だと思う。職員が“入れないこと”のリスクは常にあるけれど、“強制的に入ること”にはもっと大きな法的リスクがある。昨夜の状況で踏み込んだとしても、あとで“手続きの瑕疵”を問われる可能性がある。無理に臨検に踏み込まなかったのは正しい」
その言葉に、花音の緊張がわずかにほどけた。
朝岡は続ける。
「ただし、今朝の段階で改めて対応は必要。通告として正式に記録し、優先度の再評価を。今日は午前中にチームで再度リスクアセスメントをしよう。川野結咲ちゃんに対する面会を、本日中に設定して」
「はい。9時30分に、母親の川野美咲さんへ電話連絡を行います。日中の時間帯で、本人と結咲ちゃんに直接面会できるよう交渉を進めます」
「うん。接触の許可は出す。面会が取れなかった場合は、午後には再訪問の準備を。必要であれば、保健師・警察との三者対応も視野に入れて」
朝岡の言葉は、冷静で、的確だった。
(臨検を見送ったことで責められるかもしれない)
昨夜、そんな不安が胸をよぎったけれど――少なくとも、ここには、信頼で成り立つ判断がある。
花音は、深く一礼した。
「ありがとうございます。面会後、すぐに報告いたします」
「頼むわね。……こういう時期は、踏ん張りどころよ」
朝岡が資料に目を戻すその横で、花音は再び端末に向かい、
今日の訪問記録表に「川野結咲/杉並区桃栄1丁目」と打ち込んだ。
児童相談所の執務フロアに、花音は静かに足を踏み入れた。
コピー機の音。電話のコール音。
朝の光がブラインド越しに差し込む中で、今日もまた「いつも通りの一日」が始まっていた。
けれど、胸の奥では、まだ昨夜の冷たい風が残っている。
花音は鞄をロッカーにしまい、スーツのジャケットを整えると、真っ先に班長席へと向かった。
朝岡係長――生活支援班の統括を務める40代半ばの女性。
淡々とした語り口と、判断の正確さに定評がある人物で、花音が密かに信頼を寄せている上司だった。
係長席にはすでに彼女が着席しており、朝の確認書類に目を通している最中だった。
「おはようございます。川野結咲(かわのゆうさ)ちゃんの件で報告があります」
朝岡は、手元の資料にしおりを挟んで顔を上げる。
「昨夜23時57分、杉並区桃栄一丁目のアパートにて、赤ちゃんの泣き声に関する通報が警察に入りました。既に交番員が現着していましたが、住人から応答がなく、警察の要請を受けて、私も現地へ向かいました」
花音は落ち着いた声で、要点を整理しながら報告する。
目の前にあるのは、臨時対応の記録メモと、前回のリスク評価表のコピーだ。
「対象児童は、川野結咲ちゃん、一歳5か月。昨年11月に匿名通告があり、育児放棄の可能性があった件で、当所が一度介入しています。その後の支援継続中でした」
「昨夜は警察官立ち合いのもと、私から立ち入り調査を求めましたが、保護者――実母の川野美咲さんが拒否。児童との面会が叶わず、臨検の打診を受けましたが、現時点では緊急性・証拠の両面から不十分と判断し、見送っています」
花音の言葉に、朝岡係長はうなずくと、静かに腕を組んだ。
「……そう。妥当な判断だと思う。職員が“入れないこと”のリスクは常にあるけれど、“強制的に入ること”にはもっと大きな法的リスクがある。昨夜の状況で踏み込んだとしても、あとで“手続きの瑕疵”を問われる可能性がある。無理に臨検に踏み込まなかったのは正しい」
その言葉に、花音の緊張がわずかにほどけた。
朝岡は続ける。
「ただし、今朝の段階で改めて対応は必要。通告として正式に記録し、優先度の再評価を。今日は午前中にチームで再度リスクアセスメントをしよう。川野結咲ちゃんに対する面会を、本日中に設定して」
「はい。9時30分に、母親の川野美咲さんへ電話連絡を行います。日中の時間帯で、本人と結咲ちゃんに直接面会できるよう交渉を進めます」
「うん。接触の許可は出す。面会が取れなかった場合は、午後には再訪問の準備を。必要であれば、保健師・警察との三者対応も視野に入れて」
朝岡の言葉は、冷静で、的確だった。
(臨検を見送ったことで責められるかもしれない)
昨夜、そんな不安が胸をよぎったけれど――少なくとも、ここには、信頼で成り立つ判断がある。
花音は、深く一礼した。
「ありがとうございます。面会後、すぐに報告いたします」
「頼むわね。……こういう時期は、踏ん張りどころよ」
朝岡が資料に目を戻すその横で、花音は再び端末に向かい、
今日の訪問記録表に「川野結咲/杉並区桃栄1丁目」と打ち込んだ。