眠れぬ夜は、優しすぎる刑事の腕の中で。
花音は当直用のスマートフォンを握りしめたまま、数秒間、動けなかった。
「川野家」「泣き声の通報」「応答なし」――耳に残った言葉が、頭の中で何度もリフレインする。

嫌な予感というのは、こういう時に限って当たる。
電話に出なかったのは、たまたまじゃなかったのかもしれない。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

 立ち上がりながら、デスクの上のファイルを手早くかき集めた。
川野美咲、結咲、これまでの面談記録、支援計画、そして電話支援のログ。
「頼むから……大ごとじゃありませんように」
思わず漏れた声に、自分で驚く。
祈るような気持ちで、ファイルをバッグに詰め込んだ。

深夜の庁舎の自動ドアをくぐる。
空気がじっとりと重たい。
外は蒸し返すような熱帯夜だった。

駐車場の車に乗り込むと、エンジンの音だけが静かに鳴り響く。
信号待ちの間、ミラー越しに映った自分の顔を見つめる。

額に汗が滲み、頬はこわばっていた。
無意識に手が伸び、ほどいていた髪をゴムでひとつに結ぶ。
小さな動作で気持ちを立て直そうとするのが、いつもの癖だった。

ハンドルを握る手に、じんわりと力がこもる。
結咲の顔が、次々に浮かんできた。

笑った顔、照れた顔、泣いた顔。
つい最近、検診の話をしていたときの、小さな笑顔が頭から離れない。
あの子の存在が、花音の中でこんなにも大きくなっていたことに、今さら気づかされる。

「美咲さん……あなたは、今どこにいるの」

浮かぶのは、美咲のあのときの目――不安と、戸惑いと、どこかで頼ろうとするような、あやうい光をたたえたまなざし。
あの目を思い出すだけで、指先がわずかに震えた。

この暑さのなかで、結咲がひとりだったとしたら。

エアコンの効きも悪い部屋で、泣いて、震えて、母親の帰りを待っていたとしたら――。

「お願いだから……息をしていて」

唇を噛みながら、花音はアクセルを踏んだ。
車は静かに、だが確かに、夜の街を裂いて進んでいく。

その先に、答えがあるかはわからない。
それでも、行かなければならない。
今度こそ、守るために。
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