『夢列車の旅人』 ~過去へ、未来へ、時空を超えて~ 【新編集版】
(4)
ロボコンが姿を消すと同時に電車が動き出した。
しかし、一気に高速にはならず、低速を維持していた。
どこか途中の駅で止まるのだろうか?
わたしは真っ暗な窓の外とドア上ディスプレーを交互に見ながら、次の表示を待った。
『特別臨時停車:2025年駅』
表示が出た途端、減速が始まった。
電車が止まると、目の前の壁が大型ディスプレーに変わり、街の景色が映し出された。
「あっ!」
彼女が大きな声を出した。
「ここは……」
特徴のあるオレンジ色のドームがそびえ立っていた。
「大聖堂……」
花の都・フィレンツェのドゥオーモ(司教座教会)だった。
「こんなことって……」
ドームを見上げる女性の姿が映し出されていた。
間違いなく彼女だった。
ディスプレーの中に徳島絵美がいた。
電車の中の徳島絵美が画面の中の徳島絵美を見つめていたが、その顔にマスクはなかった。
人類は新型コロナウイルスを克服したのだろうか?
そんなことを思っていたら映像が変わった。
美術館の中だった。
「ウフィッツィ」
彼女が感嘆の声を出した瞬間、字幕が現れた。
ルネサンス期の名画を一堂に展示している美術館であり、画家や美術史家垂涎の館でもあると記されていた。
第一回廊を歩いていた彼女が左側の部屋に入っていった。
中はかなり広く、白い壁に大きな絵が展示されていた。
「ボッティチェリの間……」
彼女は信じられないというような表情でディスプレーを見つめていた。
「プリマヴェーラ……」
ボッティチェリの代表画『プリマヴェーラ〈春〉』だった。
森の妖精が西風の神の求愛を受けて花の女神〈フローラ〉になる変身を描いた絵で、それを三美神が祝うように踊っている構図が美しいと記されていた。
「ヴィーナスの誕生も……」
振り向いた彼女が見つめているのは、『プリマヴェーラ』とほぼ同じ大きさの美しい絵『ヴィーナスの誕生』だった。
海の泡から生まれたヴィーナスがホタテ貝の貝殻に乗ってキュプロス島に上陸した場面を描いたもので、その美しい構図と甘美なタッチが彼女のため息を誘っているようだった。
少しして画面が変わり、廊下に出た彼女が隣の部屋に入った。『レオナルド・ダ・ヴィンチの間』だった。そこには息をのむような絵が飾られていた。
『受胎告知』
処女マリアがキリストを身籠ったことを天使から告げられる神秘的な絵だという。
ダ・ヴィンチが20歳くらいの頃に描いたと言われている名画なのだそうだ。
優れた遠近画法によって奥行きを与えられた立体的な構図が見る者の目を釘づけにすると字幕が説明していた。
ディスプレーの中の彼女もその場を離れられないようだった。
しかし、すぐに画面が変わり、建物の外に出た彼女が映し出された。
フィレンツェで最も古い橋として知られているヴェッキオ橋を渡ってピッティ宮殿へ向かっているようだった。
目指す先はその中にある『パラティーナ美術館』のはずだと電車の中の徳島絵美が言った。
その通りだった。
画面の中の徳島絵美が中に入ってほぼ中央にある部屋に辿り着くと、その絵はひっそりとドアの左上に飾られていた。
高松さんが心から愛した『小椅子の聖母』だった。
彼女がその絵の前に立つと、優しい眼差しに目を逸らすことができなくなったのか、身動きひとつしなくなり、息さえもしていないように見えた。
「お兄さん……」
画面の中の彼女が呟いた。
高松さんが最も愛する絵を前にして胸がいっぱいになったのか、涙がひと滴落ちた。
それに誘われるようにあとからあとから泉のように湧き出していた。
水の中から見ているように聖母マリアの顔が揺れて見えているのではないかと思えるほどだった。
しばらくして彼女はハンカチで涙を拭い、バッグから写真を取り出した。
兄弟二人で写っている写真だった。
それを両手で胸の前に掲げて、絵に一歩近づいた。
高松さんにもっとよく見せてあげようとするように。
すると、聖母マリアの口元が動いたように見えた。
〈お兄様はラファエッロの工房で筆を振るっておいでですよ〉とでも言っているような気がしたが、それは彼女も同じようで、写真を持つ手がブルブルと震え出し、口からは嗚咽が漏れた。
それを止めようと右手で口を押えた瞬間、左手から写真が離れて、ふわっと床に舞い落ち、裏返しになった。
彼女はすぐに右手で拾って表面を自分の方に向けた。
しかし、そこに高松さんの姿はなかった。
彼女一人だけの写真になっていた。
「お兄さん!」
彼女の叫びが画面の中で発せられた瞬間、映像が消え、ディスプレーに新たな表示が映し出された。
『2080年駅行き』
電車がゆっくりと動き始めた。