『夢列車の旅人』 ~過去へ、未来へ、時空を超えて~ 【新編集版】

10月1日~2日


 イギリスの感染者数が9月に入ってから増え始め、9月末には1日に7,000人というレベルに達していた。
 完全に第二波が押し寄せていた。
 日本から出国する人に関しては、イギリス入国後2週間の自主隔離が不要になったと7月3日に発表されていたが、とても行けるような状況ではなかった。
 だから、松山さんの願いをすぐに叶えるのは難しかった。
 それに、もう一つ早急に解決しなければならないことがあった。
 高松さんから頼まれたことだ。
 彼の妹に連絡を取らなければならない。
 先ずこっちを優先することにした。

 食後に濃いめのコーヒーを飲んで頭をスッキリさせてから、スムーズに話せるようにメモに用件を書き出して、口に出して練習した。
 そして、勤務先である東京西洋美術館に電話をかけた。

 すぐに繋がった。
 予定通り再開できたようだ。
 こちらの名前を告げたあと、徳島絵美さんを呼んでもらったが、打ち合わせ中で電話に出ることができないと言われた。
 用件と連絡先を訊かれたが、また電話すると言って、通話ボタンをオフにした。

 その日は仕事をしながらあの時の夢のことが何度も頭に浮かんできた。
 E・Tの夢だ。
 すると、耳たぶを甘噛みされた感触や、柔らかな唇の感触がリアルに蘇ってきた。
 彼女の顔を思い浮かべると、右手の人差し指の先っぽが(うず)き出した。
 その度に頭を振って彼女の姿を追い出した。
 仕事中にミスをしたら大変なことになるからだ。
 何度も自らを戒めた。

 仕事が終わると速攻で家に帰って、ビールと即席焼きそばで腹を満たしてから、目覚ましのタイマーを11時にセットして、布団に潜り込んだ。
 12時丁度に電話をすればつかまると考えたからだ。
 しかし、あれこれ考えているとどんどん目が冴えてきて、とても眠れそうになかった。
 仕方がないので焼酎を生地でグッと1杯やると、食道から胃へ流れ落ちて体の内側から温かくなってきた。
 すると、〈おいでおいで〉と眠りの女神が誘いの手を伸ばしてきた。
 その手を掴むと優しく引っ張られ、いつしか女神の胸に抱かれていた。

        *

 目覚ましの音で叩き起こされた。
〈さっき眠ったばかりなのに〉と置時計を見ると、11時丁度を示していた。
 4時間爆睡していた。
 でも、頭が重かった。
 焼酎が残っているのか、どんよりと重かった。
 量が少し多かったようだ。
 後悔したが今更どうしようもないので、重い体に鞭打ってなんとか起き上がった。

 歯を磨いて、顔を洗っているうちに頭の重さが少し取れてきた。
 しかし、焼きそばがもたれているのか、食欲はまったく感じなかった。
 熱いコーヒーをたっぷり飲んで朝食の代わりとした。

 12時丁度に電話をかけたが、彼女と話すことはできなかった。
 保管庫で作業中だというのだ。
 まだしばらくかかるらしい。
 今度も連絡先と用件を訊かれたので、ちょっと躊躇ったが、名前と電話番号を伝えた。
 用件は「お兄さんからの伝言」とだけ伝えた。
 そして、できれば夜7時までに電話が欲しいことも伝えた。

 それからの時間が長かった。
 1分がこれほど長いとは思わなかった。
 待つ身の辛さではないが、じりじりとして腰が落ち着かなかった。
 すると、何故か若い頃のことを思い出した。
 来るはずもない女を何時間も駅前で待ち続けた嫌な思い出だった。
 昔から女に縁がない人間なのだ。
 すっぱいものが胃から逆流してきた。

        *

 夜7時になっても電話は鳴らなかった。
 カップラーメンだけの夕食を終えても、電話は鳴らなかった。
 シャワーを浴びたあと、すぐにスマホを確認したが、着信履歴は残っていなかった。
 8時になっても、スマホは無言を貫いていた。

        *

 仕事中もスマホは鳴らなかった。
 最初の休憩の時にも確認したが、音沙汰なしだった。
 無言のスマホと睨めっこしていると、なんか腹が立ってきた。

 連絡先と用件を伝えたのに音沙汰なしとはどういうことだ!
 余りにも失礼じゃないか!
 こっちの親切を無にするとはどういう了見をしているのだ!

 期待が大きかっただけに反動も大きかった。
 夢の中で見た美しい女が醜女(しこめ)に変わった。
 日付が変わってからは確認することを止めた。
 
        *

 仕事が終わってもムカムカしていた。
 そのせいか、
 ラーメン屋で餃子ダブルとニラレバ炒めを肴に生ビールを3杯飲んだ上に、部屋に戻って鯖缶をツマミに焼酎のロックを4杯も飲んでしまった。
 それだけ飲んでもムカムカは収まらなかったが、流石に酔いが回ってきた。
 歯も磨かずに布団に倒れ込んだ。

        *

 奇妙な音と振動で目が覚めた。
 それは枕の下からのようだった。
 スマホが唸っていた。
 どうしてスマホが枕の下にあるのかわからなかったが、「うるさい!」と叫んでもその唸りは一段と存在感を増した。
 どうしようもないので枕の下に手を突っ込んで、ガンガンする頭と朦朧(もうろう)とした目で番号を確かめた。
 東京西洋美術館からだった。

「もしもし……」

 ネバネバの口からガラガラの声を絞り出した。

「今仁様でいらっしゃいますか?」

 麗しき声がわたしの名前を呼んだ。

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