服毒

15.『枷』


玄関のドアが開いた音に、反射的に立ち上がった。数時間前から連絡が取れなくなったヨルを、ただ無事であってほしいと願い続けていたレオ。

彼女の足音を聞いた瞬間、抑えていたものがすべて崩れ落ちる。

濡れた傘を手に、髪や服から水を滴らせたまま立っているヨルの姿が目に入ると、言葉よりも先に体が動いていた。

「……ヨル……!」

濡れるのも構わず駆け寄り、玄関の上がり框で彼女を力強く抱きしめた。抱いた腕に、あたたかい命が確かにある。それだけで、全身の力が抜けそうになった。

「ごめん。携帯の充電がきれてて...」

突発的な豪雨で電車が止まり、連絡が取れないまま3時間以上遅れての帰宅だった。

「……わかってる……」

低く噛みしめるような声で返しながら、ヨルを抱き締める腕にさらに力を込めた。乱れた呼吸の合間に、熱を帯びた感情が漏れ出す。

「……何かあったんじゃないかと、ずっと……悪い想像ばかりが頭から離れなかった」

強い雨の音の中、着信の鳴らない携帯と静まり返る部屋で待ち続けた時間は、耐えがたいほど長く、そして冷たかった。今こうして無事を確かめられているのに、まだ胸の奥が落ち着かない。

「帰ってこないんじゃないかって思った……おまえが、もう二度と」

その言葉の続きを呑み込むと、レオは顔を伏せ、ヨルの肩口に額を押し当てるようにして、かすかに震えながら彼女を抱きしめ続けた。まるで、少しでも力を緩めれば再び彼女がいなくなってしまうかのように。

「ごめんね」

心配して待っていてくれた彼への感謝も滲む心からの謝罪。濡れた服の冷たさより、彼の腕の震えのほうが強くて、どれほど不安だったかが痛いほど伝わってきた。大柄な彼を落ち着けるように、抱きしめられたまま背中を優しく撫でる。

だが、耐え難い不安に押し潰されそうになっていた彼は、いつもより何処か危うい雰囲気を漂わせていた。

レオの腕に力が入ったまま、しばらく何も言わずにヨルの温もりにしがみついていた。だが、ふいにその指先が彼女の腰を伝って滑り落ち、彼女を軽く持ち上げると、玄関の内側の壁に押し寄せるように体を寄せた。

「……ヨル」

低く名前を呼ぶ声は、震えた感情を押し殺すように静かだった。けれど、その奥に潜む激しさは、耳元で囁くたびに、肌の奥まで焼き付くようだった。

「おまえが……」

喉の奥で言葉が詰まり、息が荒くなる。低く絞るような声。感情がうまく制御できず、言葉の端が震えていた。ヨルの背に回した手が、少しだけ爪を立てるように力を強めた。

「二度と、どこにも行けないようにしてしまいたい」

耳元で囁かれるその言葉は、甘さよりも熱く、どこか危うい。その言葉は怒りではなく、恐怖に支配された愛からくるものだった。彼女を失う可能性に晒されたほんの数時間で、理性という名の蓋が、音を立てて揺らいでいた。

「……連絡が取れないだけで、ここまで壊れそうになるなんて……笑えないな」

ようやく顔を上げたレオの瞳には、安心と安堵、そして——どうしようもない独占欲が、確かに滲んでいた。

ヨルを抱く手がそっと離れたかと思うと、レオはゆっくりと後ろに下がった。そして、玄関の靴箱の上に置いてあった黒い小さな箱を取り出し、躊躇いなく蓋を開ける。

ヨルの視線を受け止めながら、彼の手がゆっくりと箱から取り出したのは、艶のある金属製の手錠と、細い革製の首輪だった。

「……こうでもしないと、またおまえが遠くへ行きそうで怖いんだ」

思わず息を飲み、無意識に彼から逃れようと後ろへ下がる。だが、狭い玄関では逃げ場などなかった。

「レオ...?」

彼の存在を確かめるように名前を呼ぶ。

「怖がらせたい訳じゃないんだ、ヨル」

レオの声は低く、けれど確かに揺れていた。濡れたヨルの腕をそっと掴む手のひらに、強引さはなかった。ただ、怯える彼女を引き留めたい一心が滲んでいた。

「……だけど」

彼女の目を真正面から見据え、わずかに眉を寄せて言葉を続ける。

「おまえが消えるかもしれないって考えたら、もう正気でなんていられなかった」

ヨルを抱きしめていた時に触れていた湿った前髪の奥の瞳には、狂おしいほどの執着と、壊れそうな脆さが滲んでいた。

「一度こうやって、俺のものだって証明してくれないか」

手錠を見せながら言うその言葉は、命令でも強要でもない。むしろ懇願にも似た弱々しさがあった。彼の“独占”は、彼女を閉じ込めたいわけではなく、ただ“失う恐怖”に形を与えるような行動だった。

「……頼む、ヨル」

それは狂気ではなく、彼なりの不器用な、歪んだ愛の形。恐怖と愛情の狭間で揺らいでいた。

「...きみがそれで安心できるなら」

濡れた髪を纏め頸を露わに、腕もそっと彼へと差し出した。

レオの瞳が僅かに震える。
予想もしていなかった――いや、どこかで期待してしまっていた彼女の言葉に、奥底に沈んでいた何かが波紋のように広がっていく。

「……本当に、いいのか?」

手にしていた手錠が微かに揺れる。彼女が首を差し出したその所作は、降伏ではなく信頼だった。拒まない彼女の静かな覚悟が、胸を締めつける。

ヨルの絶対的な信頼にレオの心は熱く疼いていた。彼女の頸元にかかる髪を丁寧に払って、震える手で首輪をつける。その手をゆっくりと滑らせながら、自然とヨルの髪を撫でた。冷たい雨に濡れたヨルの身体が温かい感触に包まれる。

「これで、おまえが逃げたりしないってわかる」

そう呟いた声には、苦しさと安堵が混じっていた。差し出された手首にも手錠をかけると、もう片方の手錠はレオ自身の腕へ。

カチャリ、と短く冷たい音が鳴った。

「俺だけのヨルだ」

口調こそ強気なものの、その手は確かに優しかった。愛する彼女と繋がっていられる――ただ、それだけのために。指先は優しくヨルの腕を撫で、安心させるように微笑む。レオの瞳は真剣そのものだった。彼女の自由を奪うのではなく、繋ぎ止めたい一心の独占。

レオの瞳の奥に眠る強い独占欲と支配欲、そして不安によって焼き切れそうになっていた限界間近の理性。

「私の心まで捕まえておかなくていいの?」

全てを理解した上で、彼女は首輪と手錠なんかで安心し切っている恋人を揺さぶった。こんなものだけで満足なのか、と。

レオの目が静かに揺れた。
その一言は、鋭い刃のように彼の胸の奥へ突き刺さる。

「……おまえ……」

低く、苦しげに笑う。怒っているわけではない。ただ、限界だった。理性という最後の糸を、自分で断ち切ろうとするような――ヨルの言葉が、それを後押しした。

「心まで捕まえられるものなら……とっくにしてる」

囁くように、でも吐き捨てるように。レオはそう言って、手錠で繋がれた自分の腕に軽く力を込める。鉄の冷たさが、かえって熱い。

「俺には、おまえしかいないんだ。おまえの全部、独り占めにしたいと思って何が悪い」

見上げた先にあるヨルの目を真っ直ぐに見据え、荒々しく息を吐く。もう取り繕う余裕もなければ、優しさの仮面も剥がれ落ちていた。

「……おまえの“心”が、俺から逃げないって、証明してみろよ」

それはまるで――一か八かの賭けのように。心まで縛りたいという、彼なりの渇望の告白だった。

剥がれ落ちた優しさの仮面の奥、いつも蝶よ花よと大切にしてくれていた彼の本当の姿が垣間見えたようだった。
ゆっくりと瞼を下げ悪戯に微笑むヨル。

「いいよ」

手錠を繋がれた腕を自分の方へと引き寄せる。そうして近づく彼の唇に深く口付けた。何度も、何度も、息が続かなくなるほどに繰り返す。

手錠越しに引き寄せられた腕が熱を帯びて震える。ヨルの唇が重なるたび、レオの身体の奥で何かが音を立てて崩れていくようだった。

「……、ヨル……」

彼女の名前を呼ぶ声は、熱を帯びていた。
息をつく間も与えられず、ただ貪るようなキスに身を委ねるしかない。唇を何度も重ねられるたびに、理性と欲望の境目が曖昧になっていく。
彼女がここにいる――それだけが、今のレオにとって唯一の現実だった。

手首には冷たい金属の感触。だがその繋がれた距離が、彼を強く安心させていた。
まるで夢の中で失いかけた彼女を、ようやくこの手に繋ぎ留めたかのように。

「……逃げるな」

唇を離した瞬間、かすれるような声でそう囁く。瞳は熱を帯びたまま、けれどどこか怯えたようでもある。まるで、もう一度失うことを想像して震えている子どものように。

「ヨル……おまえが俺を見てくれてる間は……もう何もいらない」

繋いだ手首をそっと持ち上げ、唇を寄せる。そこに優しくキスを落とした。

「折角、首輪もつけてくれたのに使わないの?」

繰り返されるキスで乱れた呼吸だが、まだ何処か余裕のある表情で問うヨル。

レオの喉が、静かに鳴った。
ほんのわずかに動揺が走る。だがそれは怒りでも羞恥でもない。

――抗えないほどに、愛おしい。

「……誘ってるのか、おまえは」

額を寄せるようにして低く呟いた声には、滲む熱と抑え込まれた衝動。
冷たい鎖に繋がれているのは彼女の方だというのに、完全に主導権を握られているのは自分のほうだと、レオはわかっていた。

「そうやって……おまえはいつも俺の理性を試すんだな」

手首を繋ぐ鎖をそっと引いて、ヨルの身体を引き寄せる。
首輪の金具に指を這わせるように触れ、そこに唇を寄せて静かに囁く。

「逃げられないようにしてやったのに……そんな顔されたら、また捕まえ直したくなるだろ」

熱と独占欲をそのまま言葉に変えたような声音で、低く、確かにそう告げた。
彼の中で眠っていた獣が、少しずつ、鎖を引きちぎろうとしている。

「どうやって?」

ヨル自身のせいで優しさを保てなくなるその瞬間を見るのが愉しい。彼を繋ぎ止めているものをひとつずつ千切って、彼が隠そうとした全ての欲望を露わにしようとする。

「教えて」

手錠の無い手を引き寄せると指を絡ませて逃げられないようにゆっくりと繋いだ。

レオの瞳が細められる。
その奥には、火を灯されたような熱が揺れていた。静かな炎――けれどそれは、いつか全てを焼き尽くしてしまいそうなほどに危うく、激しい。

「……おまえ、」

言葉の続きを呑み込んだ。
声にすれば、きっともう優しさの仮面は戻せない――そんな確信があった。

絡められた指先に、ギュッと力を込めて握り返す。その細い手が、どんなに自分を振り回し、狂わせるのかを思い知らされるたびに、それでも愛しさは深まっていく。

「俺に見せろよ。おまえの全部を」

支配なんかじゃ足りない。
心も、身体も、呼吸さえも、自分だけのものにしたくなる。

「おまえがそうやって……俺を焚きつけるなら――」

首輪のリングに親指を引っかけて、ゆっくりと引き寄せる。目と目が触れる距離で、囁くように続けた。

「……教え込んでやる」

彼女の目をじっと見つめながらかけた声は、低く、震えるほどに静か。
感情を押し殺しているのではない。
すでに許しをもらったのだという、支配の確信に満ちた声。

ゆっくりと、彼はヨルの両手を包み込むようにしてその手を壁に抑え付けた。繋がれた手錠がカシャンと揺れる。

その視線は、もう優しいだけの恋人のものではなかった。
理性の皮を剥がされ、欲望の奥から滲み出した、レオという男の本質――それでも、その目はただ、ヨルだけを映している。

彼女は満足げに口角を上げた。
やっと見えた彼の本質に、自分だけが触れたのだと。レオの手に繋がれたまま、ヨルはゆっくりと瞬きをする。潤んだ瞳に微かに笑みを滲ませて、艶やかに囁いた。

「……やっと、出てきた」

まるで隠れていた獣を誘い出すことに成功したかのように、ヨルは小さく笑った。
首輪を引かれたまま、まるでその行為すらも悦びに変えてしまうように、レオに近づく。

「ねえ、レオ」

その声は、甘く、柔らかく――それでいて、どこかくすぐるような色気を含んでいる。
自分にしか知られたくないレオの顔。自分にしか向けない視線。支配と服従、独占と献身――そのすべてがこのふたりの愛の形であるかのように、ヨルはレオの目を真っ直ぐに見つめた。

たった一度の口づけで、たったひとつの言葉で、こんなにも彼を揺らせることができるのだと――ヨルは、確かに理解していた。

「きみが望むなら、私は従ってあげる。何をされても……逃げないよ」

指を絡めたまま、首元にそっと口付ける。繋がれたままの距離、互いに逃げ場など無い。
まるで逆に支配しているかのように、あくまで穏やかに、挑発的に。

「ねぇ、レオ。私は誰のもの?」

その問いに込められた意図を、彼がどう受け取るのか――
そのすべてが、愉しくて、愛しくて、どうしようもなく胸を熱くする。

レオの呼吸が浅くなる。
それは高ぶりでも、動揺でもない。
目の前のヨルが、自分を追い詰めているという実感。そして、それを抗えぬほど甘美に感じているという自覚。

「ヨルは……俺のものだ」

声は低く、震えていた。
愛しさと、支配欲と、そして彼女にだけ許す屈服の境界。

指を絡めた手を強く握り、逃がさぬように腰を引き寄せる。そのまま首筋に、鋭く、それでいて丁寧に唇を落とした。
何度も、まるで所有の証を刻むように。彼女が自分のすべてを許した瞬間、彼もまた、すべてをさらけ出す覚悟を決めていた。

「俺だけの表情を他の奴に見せるな。俺だけが触れていい身体を他の奴に見せるな。……おまえの全てを俺以外に渡すな」

指先が震えていた。欲望にではない、不器用な愛の強さに。それをどう伝えていいか分からず、ただ彼は、彼女の唇を奪った。
激しく、深く、貪るように。
手錠も首輪も、そのすべてがただの飾りに思えるほどに。

「全部、俺に明け渡して……ヨルが誰のものか、二度と疑えないようにしてやる」

静かに、けれど言い切るように囁いた声。
理性の境目を踏み越えた、男の本音。
そして、それを引き出せる唯一の存在が目の前にいるという、抗いようのない幸福。

その言葉と同時に、手錠の鎖が揺れた。
繋がれた絆の音が、ふたりの境界を越えて響く彼の心に燻るのは征服の悦びではなく失うことへの恐怖。唯一無二の彼女を、世界から奪い取り、誰にも触れさせないために。

それが、彼なりの愛の証だった。
鎖に繋がれていたのは、きっと彼の方なのかもしれない。
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