服毒
14.『悪夢』
───
曇天の下、人気のない廃墟のような場所に立ち尽くすレオ。そこに現れたヨルは、彼の知る穏やかな彼女ではなく、すべてを悟り終えたような静かな瞳をしていた。
「……もう全部思い出した。ここで終わりにして」
彼女は遠くの空を見ながら、淡々とそう告げる。
「本当の私は、貴方の隣にいるべきじゃなかった」
かつてのように彼を「きみ」とも「レオ」とも呼ばず、「貴方」と距離のある言葉で呼ぶ。
手を伸ばしても届かず、振り返っても笑ってくれず、どこか既にこの世界にいない人のような存在感。
……ざらついた風が吹いた。色の抜けた世界で、ただ彼女の声だけがやけに鮮明に胸に刺さる。
「ヨル……」
口をついて出たその名に、彼女は微かにまぶたを震わせたが、すぐに何事もなかったように視線を逸らした。
「それは“彼女”の名前。私は、もう貴方の恋人じゃない」
彼女の声は、どこまでも冷たく、優しかった。拒絶なのに、突き放すのに、痛みの裏にあるのは確かに”愛”だった。けれど、それはもう自分のためではなく、何か別の理由で生まれた愛し方だ。
「……それでも、俺には、おまえしかいない」
足元の瓦礫が砕ける音を踏みしめながら、距離を詰める。
だが、ヨルは一歩も動かずに、ただじっと立っていた。まるで「過去」そのもののように。
「貴方は前に進まないと。私のことはもう...」
彼女が言葉を続けようとしたその瞬間。
レオは声を震わせながら、遮るように言った。
「いいや……おまえじゃなきゃダメなんだ」
その声に、彼女の唇がかすかに揺れる。だが表情は崩れない。涙も流さない。
それでも、ほんの一瞬――ほんの一瞬だけ、あの頃のヨルの影が、その瞳に宿った。
「..."ヨル"のことはもう忘れて」
目を逸らし俯くと背を向ける。その背中は冷たくもあり、どこか悲しみを孕んでいた。
「……そんなの、できるわけないだろ」
背を向けた彼女の姿に、胸が締めつけられる。足は自然と動いた。瓦礫を踏み越え、彼女の背中まであと少しの距離。
「名前を呼ぶなって言われても、おまえを忘れろって言われても、無理だ」
声が震える。けれど、それは怒りでも憤りでもなく――喪失の予感に対する、どうしようもない恐怖だった。
「どれだけ変わっても、別人みたいになっても、おれは……“ヨル”しか、知らないんだよ」
差し伸べた手が、あと少しで彼女の背に届く。
その温もりを思い出すように、レオはほんの一瞬、目を閉じる。
「……本当は、全部思い出しても、隣にいてほしかった」
声は低く、哀しく、どこまでも正直だった。
「それが叶わない夢でも、せめて――」
背を向けたままのヨルの心に、その言葉の先はは届かない。
「私はもう、貴方のことを愛してない」
まるで自分自身に言い聞かせるように、どこまでも段々と。虚しく心を叫ぶ彼に一瞥もくれず、そう言い放った。
「……そうか」
返ってきた言葉は、想像していた中で最も痛いものだった。けれど、レオはその一言を真正面から受け止めるように、静かに目を伏せた。
風が吹き抜ける。
彼女の髪がなびいて、掴めない距離で揺れる。
「なら……最後に一つだけ聞かせてくれ」
彼はその場に立ち尽くしたまま、穏やかで、けれど決して諦めていない声で問う。
「おまえが、ずっと――“レオ”って名前を呼び続けたこと。何度も、何度でも、抱きしめてくれたたこと。それだけは……全部、嘘じゃなかったよな?」
彼の瞳は、懇願の色を纏いながら、それでも彼女の瞳をまっすぐに射抜こうとしていた。
手を伸ばせば届く距離にいながら、まるで永遠に触れられない場所にいるような“ヨル”。
一歩も近づけずに、ただ、答えを待つ。
夢の終わりにすがるような、最後の問いだった。
「嘘だよ、全部。最初から、」
そこで言葉が途切れる。背を向けている彼女の表情は見えないが、その声にはほんの少しの震えが感じられた。
その一瞬の“震え”に、レオの足がかすかに前へと動いた。けれど、それ以上は近づけない。踏み込めば、彼女が完全に消えてしまいそうで――。
「……俺のために泣いてくれたのも、一緒に笑い合ったのも、全部……嘘だって言うのか?」
その声は低く、けれど押し殺された痛みがにじむ。笑ってほしかった。怒ってもいい。睨まれても構わない。だけど、「全部嘘」なんて言葉だけは受け止めきれなかった。
「……わかった。おまえが本当にそう思うなら、もう何も言わない」
喉の奥が苦しくなる。胸を締め付けられるような、かすかな息。
「……でも、忘れろなんて言うな。忘れられるわけがない」
震える拳が静かに下ろされる。
「どんなに否定されても、どれだけ傷ついても。俺は、俺が“ヨル”を好きだった事実だけは消せない」
空は、灰色に沈み、ぽつりと雨が落ち始める。
その雨はレオの涙を隠すには少し優しすぎた。
彼女が去ろうとするその背に、呼び止める声も、伸ばす手も――もう出せなかった。
「さよなら」
───
伸ばした手から遠ざかるヨルの背中。その言葉と共に喉が焼けるように乾いて目が覚めた。
息がうまくできない。汗ばんだシャツが肌に張り付く感覚に、じっとりとした嫌悪感が込み上げる。
天井。薄暗い部屋。かすかに揺れるカーテンの影。寝汗を滲ませたシャツが肌に張りついているのに気づいたのは、目を覚ましてすぐのことだった。
「……夢、か」
寝起きにしてはひどく息が荒い。心に重い何かが沈殿している。まだ胸の奥がじんじんと痛む。夢だと分かっているのに、あの“ヨル”の背中と言葉が焼きついて離れない。
薄暗い部屋、窓の隙間から差し込む朝の光。
横を見ると、いつものように眠っているヨルの姿があった。穏やかな寝息、柔らかく揺れる睫毛、彼だけを許す無防備な寝顔。
「……ヨル」
そっと、ヨルの髪に触れる。指先が彼女の温度を感じ取るたび、胸の奥にこびりついた不安が少しずつほどけていく。
現実だ――これは夢じゃない。
「...俺を置いていかないでくれ」
自分でも驚くほど弱々しい声で囁く。
今にも消えてしまいそうな不安を、あからさまに隠そうともせずに。
「どうしたの...?」
彼の声にゆっくりと目を覚ましたヨル。まだ眠そうな目を擦り、小さな欠伸をひとつ。か細い声で必死に訴えかける恋人へ目を向けた。
「......なんで、泣いてるの」
レオ自身も気づいていなかった涙。溢れそうになるのをそっとヨルが掬い、心配そうに頬を撫でる。
レオは自分の頬を撫でるヨルの指に触れられて、ようやく気づいた。
じんわりと濡れたその指先。知らず知らずのうちに流していた涙。
「……ヨル」
掠れるような声で、彼女の名前を呼ぶ。夢の中では二度と呼べないと思った名を。
ほんの一瞬、何をどう言葉にすればいいのか分からず、視線を落とした。けれど――
「...夢を見たんだ。おまえが……全部思い出して、俺の前からいなくなる夢を」
その言葉の端に、かすかに震えが混じっていた。彼は弱さを見せることが苦手な男だった。けれど今だけは、彼女の前で強がれなかった。
「俺のこと愛してないって……最後まで一度も笑いかけてくれなかった」
ようやく振り絞るようにしてそう言うと、レオはそっとヨルの手を取った。
掬い取られた涙のぬくもりを、そのまま自分の胸の上に押し当てて。
「夢だって分かってる。でも……本当に、いなくなるかと思った」
強くも、脆くもない。
ただ、今そこにいるヨルが確かに“自分のヨル”であることを、必死に確かめるように――レオは彼女の手を離さず、真っ直ぐ見つめていた。
「大丈夫、そばにいる」
私はレオの"ヨル"だから。心配しないで。そんな優しい声が静かな部屋に響く。
そっと背中を撫でる温かい手は彼の震えを落ち着けるように何度も優しく触れていた。
レオは、そっと目を閉じる。
今、触れているこのぬくもりが夢ではないことを確かめるように、彼女の腕の中に顔を埋めた。
その確かさに胸の奥がじんわりと温かくなる。
同時に、夢の残滓がほんの少しだけ疼いて、思わず彼はヨルを胸元に強く抱きしめた。
「……ヨル」
呼び慣れたその名をもう一度、今度は胸の奥から零すように呟いた。
夢で失いかけた彼女が、現実ではこうして優しく抱きしめてくれている。
それが、どれほど尊く、どれほど救いだったかを――言葉では伝えきれなかった。
「おまえが“俺のヨル”じゃなくなるなんて、想像したくなかった」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
誰よりも強くあろうとした男が、誰よりも弱くなるのは、きっと彼女の前だけだ。
彼女の指がそっと髪を撫でるたび、荒れていた心が少しずつ静かに沈んでいく。
鼓動が、呼吸が、互いに重なり合い、ゆっくりと落ち着いていく。
肩に額を預けると、濡れたまつげが彼女の肌に触れた。
腕の中のヨルは柔らかく、温かく、どんなに夢と現実が交錯しても、今は確かにここにいる。
レオはようやく顔を上げて、ヨルの瞳を見つめた。
「……ちゃんと、俺のこと“レオ”って呼んでくれ」
小さな、けれど確かな願いを、彼は囁く。
夢ではもう二度と聞けなかった、彼女の口からのその呼び方を――今、確かに聞きたかった。
「レオ」
彼の願い通り、いつものように愛を込めて優しく呼びかける。
「愛してるよ、レオ。きみのことが好き」
彼を安心させるようにそっと額に口付けた。レオは瞼を閉じ、ヨルの唇が額に触れた瞬間、深く息を吐いた。
それはまるで、張り詰めた心がようやく解けたような、長い夢から目覚めるような呼吸だった。
「……ヨル」
その名をまたひとつ、今度は震えなく、静かに、大切に口にする。
瞳を開けると、そこには夢とは違う、彼を真っ直ぐに見つめる“彼女”がいた。
「今の、もう一回言ってくれ」
掠れた声で、けれどどこか子供のように甘えるように――その言葉の続きを欲しがる。
"愛してる"
たったそれだけの言葉が、どれほどの重みと意味を持つのかを、彼は今、痛いほど知っていた。
「……ちゃんと、俺のものだって、言ってくれ」
まるで夢の残滓を塗り潰すように、彼女の言葉で現実を塗り重ねていた。
彼の腕がヨルの背に回される。確かに、そこに彼女がいる。
それだけで、今はもう何もいらなかった。
ヨルは彼の言葉にほんの少し目を見開いた。これほどまで彼にとって夢の内容が現実味を帯びた恐怖を与えていたのかと理解する。
「私はきみのもの、レオだけのヨルだよ」
普段と違う彼も悪くないとでもいうように、全てを受け入れる優しい微笑み。
レオはヨルのその言葉に、まるで祈りが叶ったように目を伏せた。
唇がわずかに震え、それを隠すように、彼女の肩へと顔を寄せる。
「……ありがとう。夢の中のおまえは、俺を置いてどこかに行こうとしてた。もう、二度と戻ってこないような目をして……」
低く擦れた声には、消しきれない余韻と、愛しさが滲んでいた。
どれだけの喪失感に打ちのめされたのかが、言葉の端々から伝わる。
「でも今は、こうして触れて、声を聞いて……ちゃんとおまえが、ここにいるってわかる」
顔を上げて、もう一度その瞳を見つめる。夜明け前の静寂のように深く澄んだその眼差しに、自分だけが映っていることを確かめるように。
「……どこにも行くなよ」
その声は命令ではなく、懇願に近かった。
腕に力を込め、心音が混ざる距離で、彼はただ真っ直ぐにヨルを抱きしめ続けた。
「うん」
抱きしめたまま、ヨルは彼の言葉に応えるように優しく背中を撫でていた。