服毒

19.『標的』(4)


軋むような音を立てて、マンションの自動ドアが閉まる。雨の音が、一枚の硝子越しに遠ざかっていった。レオは一切振り返らない、まるで気にならないというように。

「……濡れただろ」

優しさを含んだ声で呟きながら、エレベーターのボタンを押す。
隣に立つヨルをちらりと見やると、その肩先には細かな水滴が散っていた。
彼女の頬にも、髪にも、冷たい雨の名残が落ちている。

レオは黙って、自分が着ていたジャケットを脱いで、ヨルの肩にそっとかけた。
肌寒い空気の中、まだ微かに体温の残る布が、彼女の肩を覆う。

「……あんな奴の言葉、聞く必要なかった」

目線はエレベーターの表示に向けたまま、けれど声の温度だけが、彼女を包むようにそっと落とされた。

「彼女の方がきみを幸せにできるんだって」

まるでしつこい宗教勧誘を流し聞いた時のような感想。必死に叫んだ彼女の言葉もヨルにとってはその程度のものでしかなかった。

レオはヨルの言葉に、ふっと小さく鼻で笑った。けれどそれは、馬鹿にするような笑いではない。どこか安堵にも似た、胸の奥に沈んでいた不安がようやく形になったような、そんな微かな吐息だった。

「……俺が、幸せかどうかなんて」

ぽつりと、低く呟く。

「決めるのは他人じゃない」

エレベーターの扉が、静かな電子音と共に開く。無人の小さな箱にヨルを先に促し、続けて自分も乗り込む。静かに閉まる扉。密閉された空間の中、二人の濡れた衣服から立ちのぼる、雨の匂いと微かな体温。

「……おまえがそばにいてくれるなら、それでいい」

その言葉に満足したのか、手を伸ばし彼の濡れた髪を避けると背伸びをして彼の頬にキスをする。

「...レオに見られてなくて良かった。私彼女に少し意地悪だったの」

その言葉とは裏腹に見られていたとしても何も気にしていなかったであろう声色。だが、大切な人の前では可愛くありたいと思うもの、そんなヨルの気持ちが僅かに滲んでいた。

レオの頬に柔らかな唇が触れた瞬間、彼の表情がふっと緩む。強張っていた肩の力が抜けるように、まるで全身の神経がヨルのその仕草ひとつで溶けていくかのようだった。

「……随分かわいいこと言うな」

レオはヨルの腰にそっと腕を回す。
引き寄せるでも、抱きしめるでもない。けれどそれは、彼なりの"触れていたい"という欲の形だった。

「もし最初から見てたとしたら、たぶん正気ではいられなかった」

その声には静かな怒りがまだ残っている。けれど、ヨルに触れているうちに、それすらも少しずつ薄れていく。彼の視線はヨルだけに向けられていた。

向けられる彼の視線と柔らかな熱。雨に濡れた互いを見て少し微笑むヨル。

「...帰ったらまずはお風呂だね」
どこか期待させるような言葉。

その時エレベーターが目的地の到着を知らせる音が響いた。

「……そうだな」

レオの声が低く響き、まるでその提案に何か含ませるような間があった。
だが、それ以上は何も言わずにエレベーターの扉が開くと、彼はヨルの背中に軽く手を添えて歩き出す。

濡れた服が肌に張り付き、そこから伝わる微かな冷たささえ、今は愛しく感じるほどだった。

廊下の照明はいつもよりもやけに静かで、濡れた靴音が遠慮がちに響く。
そして、ドアの前に立ち止まると、レオはポケットから鍵を取り出しながら、ちらりと横目でヨルを見た。

「先に入ってろ。タオル取ってくるから」

そう言って玄関の鍵を開けると、ヨルに先に入るよう促すようにドアを引いた。
少しでも長く、彼女の湯気に包まれた姿を思い浮かべていられるように、そんな不埒な期待を心の奥にしまうように。

「一緒に入る?」

玄関から浴室へ向かう途中、雨で張り付いた服を剥がしながらあくまで他意はないように言ったヨル。レオはドアの鍵を回した手をゆっくり下ろし、ヨルの言葉に一瞬ぴたりと動きを止めた。

脱衣所へと向かうヨルの背中──肩から服が滑り落ちかけているその姿に、視線が自然と吸い寄せられる。
雨で濡れた服の輪郭が、彼女の華奢な体を浮かび上がらせていて、目を逸らすにはあまりに無防備だった。

「……お誘いか?」

低く押し殺すような声。けれど、その奥には理性を揺さぶられた男の色があった。

視線を逸らそうとしたが、思わずもう一度だけ彼女の背中に目をやる。そして、ほんの少し眉をひそめて、わざとぶっきらぼうに言った。

「駄目だ」

そう言いつつも、レオは自分の足がすでに彼女を追いかけてることに、気づいていないふりをして。

「そのままじゃ、レオが風邪ひく」
自分のために走って濡れた彼の身体を見て、心配そうに呟く。

「背中、流してあげるから」

レオはヨルの声に立ち止まり、ほんの少しだけ息を吐いた。

「……おまえな」

呆れたような声音なのに、その背にはどこか安堵の気配が滲んでいた。濡れた髪を無造作にまとめながらこちらを見つめているヨルの姿。

「じゃあ──頼む」

そう一言だけ。短く、けれど確かに甘さを滲ませた声。レオはボタンを外すと、濡れたシャツの裾を無造作に引き抜きながら、ゆっくりとヨルに歩み寄る。

湯気の立ち込める静かな空間に、ふたりの足音が吸い込まれていく。
熱が、静かに肌と心に沁み始めていた。


───


2人でお風呂から上がるとリビングへ移動した。お湯で火照った身体を冷ますように、ノースリーブと部屋着用のショートパンツ姿で洗い立ての髪をタオルで拭くヨル。

その胸元には帰宅時には無かったはずの印が残されている。

「...心配して損した」

それは同じように髪を拭いているレオへと向けられる。風邪を引くのでは、と一緒に入ることを提案した彼女だったが、そんな心配を必要としない程、彼はあまりに元気だった。

レオはソファに腰を落としながら、バスタオルでざっと髪を拭いていたが、ヨルの言葉にちらりと視線を向けた。

洗い立ての髪がまだしっとりと首元に張りつき、薄手の部屋着からは素肌の熱が透けて見えそうだった。胸元に残された紅い痕──自分がつけた印に気づくと、タオル越しに頬をかくようにして視線を逸らす。

「……おまえが、煽るから悪いんだ」

小さい声。照れたような、それでいてどこか拗ねたような響きを帯びている。彼女が自分のことを本気で心配してくれたことも、わざとじゃなく無意識でああいう言葉を口にしたことも、全部分かっている。だが、許容したのもまた彼女だ。

「その文句、今さら言うのか?」

ソファの背もたれに肘をついて、ヨルの方へと身体を向ける。濡れた髪、薄手の服、その下に透けて見える熱の名残。その全てに視線を泳がせたあと、レオは意識的に目を逸らした。

「……そんな格好で?」

ヨルの無防備さに苦笑しながらも、彼の言葉は誰にも渡す気のない独占欲を滲ませていた。

「2回戦は無しだよ」

熱を帯びた彼の言葉の端々に気づくと、釘を刺すように静止する。

「...明日早いでしょ」

レオは言葉を飲み込み、口元に軽く手を当てて唇を噛んだ。

「……ああ、わかってる」

レオは静かに息を吐いた。けれどその声には、どこか不満げな滲みがある。ソファに背を預け、タオルを首にかけたまま、未練がましくヨルの姿をもう一度ゆっくりと見る。

彼女の言葉が正論であることくらい、もちろん分かっている。明日は立て続けに予定が詰まっているから、身体を休めるべきなのは確かだった。

「おまえがそう言うなら、我慢する」

押し殺すような声で応えると、タオルを首から外してソファの背に放り投げる。言い返すでもなく、すねるでもなく──ただ、彼なりに理性を飲み込んだ返事だった。

「……だから、くっついてくるなよ。冗談でも、無理だからな」

どこか不器用に、けれど本気で言っているのがわかる声だった。

そして、ソファの端に少し身をずらして、ヨルのためのスペースを空けながら、レオはぽつりと呟いた。

「……でも、隣には来いよ。寝る前ぐらいは、な」
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