服毒
18.『標的』(3)
小雨がぱらつく、肌寒い夕暮れ。
レオが帰ってくる前に買い出しへ向かおうと傘を開いた時、ヨルは雨の中傘も差さずにマンションの前に立つ小柄な女性の姿に気づいた。
──確か、"ナギサ"だったような
不自然なほどに静かに立っている彼女の背中に、ヨルはほんのわずかな違和感を覚える。
以前職場までレオを迎えに行ったときの、あの焦った表情。敵意を隠しきれていなかった視線。
「……ナギサさん?」
まだレオは帰ってくる時間じゃない、同じ職場なら分かっていることだろう。ただの偶然でないとすれば、用があるのはきっと私の方。
静かに呼びかけると、ナギサは振り返る。
そしてヨルの顔を見た途端、その微笑みを少し深めて、雨で濡れた前髪を無造作に指で払った。
「こんにちは、ヨルさん。……少しお時間いいですか?」
声は丁寧だが、どこか張りつめた響きを含んでいた。ヨルが傘を傾けると、その視線をじっと受け止めるように、ナギサは一歩前に出る。
「レオくんが帰ってくる前に2人で話をしてみたくて」
距離を縮めるような言葉とは裏腹に、ナギサの目は笑っていない。そのまっすぐな視線は、まるで探るような、そんな圧を含んでいた。
「こうしてちゃんと話すのは初めてですもんね。──ほら、あの時は途中でレオくんが来て私も驚いちゃって……話の途中だったのに」
小さく息を吐いて、わざとらしい照れ笑いを浮かべながら、ナギサはそのまま続ける。
「……ちゃんと、知っておきたくて。レオくんがどんな人を“選んだ”のか」
それはレオを職場へ迎えに行ったあの日、彼女に言った "彼が選んでくれたという事実に応えるだけ" という言葉に対する戦線布告のようなものだろうか。
「そうですか、こんな雨の中、」
特に断る理由もない、買い出しはまた今度でも。雨に濡れた彼女を家に招き入れようと背を向ける余裕すら見せる。ナギサにはそんな彼女の振る舞いひとつひとつが癪に触るようだった。
ナギサの口元がかすかに引きつった。微笑んでいるはずなのに、その眼差しはじわりと熱を帯びる。
「──ほんと、余裕なんですね」
ぽつりと落とされたその言葉には、嫉妬とも、悔しさともつかない濁った感情が混じっていた。
「私はずっと彼のそばにいたんですよ。レオくんが怒った時も、笑った時も、落ち込んでた時だって……ちゃんと見てきた。支えてきた。……その全部を知らない人が、ぽっと現れて“選ばれた”なんて、簡単に納得できるわけないじゃないですか」
雨がナギサの頬を流れる。涙と混ざっているのか、ヨルの目からは判断できなかった。
「私の方が、レオくんの隣にふさわしい──ずっとそう思ってきました。今だって……そう信じてる」
その声は震えていた。だがそれは弱さではなく、堪えてきたものが溢れそうな強い執念の震え。
「だから、お願いです。彼を手放してもらえませんか?」
ナギサはヨルに、あえて真正面から向き直りながらそう告げた。
懇願とも、命令ともつかないその口ぶりだが、どこかで“譲歩”をしてやっているとすら思っているような――そんな色を滲ませていた。
「手放してもらえないか...、」
彼女の言葉を淡々と繰り返す。ナギサから視線を外すと可哀想なものを見るかのように眉を下げて小さな息を漏らした。
多くは語らない。何故そんなことをしないといけないのかとでもいうようにヨルは彼女へ視線を戻す。
ナギサは、その視線にほんの一瞬だけ怯んだ。
まるで、何もかも見透かされたような、そんな気がして──自分の言葉が、子どものわがままのように映っているのではないかと、不安が喉を締めつけた。
けれど、すぐにその感情を打ち消すように、唇を噛みしめて前に出る。
「……どうして、何も言い返さないんですか」
声を震わせながらも、ナギサは一歩も引かない。自分の中にある感情を、冷静に整えるように、言葉を選びながら、けれど確実にヨルに届かせようとする。
「私の方が、レオくんを知ってる。彼の好きな食べ物も、苦手な話題も、落ち込んだ時にどうして欲しいのかも、誰よりもわかってるのに……!」
その瞳にはもう、微笑も、取り繕う余裕もなかった。濡れた髪が頬に張りつき、冷え切った身体を震わせながらも、ナギサはヨルの前に立ち尽くしていた。
「レオくんは不器用で繊細で、自分の気持ちを押し込める癖がある。そんな人には、私みたいな……ちゃんと気づいてあげられる人間が必要なのよ」
まるで自分に言い聞かせるように、静かに、しかし確かな熱を帯びて告げる。
「あなたより、私の方が……あの人を幸せにできる」
その言葉には、長い時間に積もった執着と、報われない想いの痛みと、それでも願ってやまない希望がこもっていた。
「……私より、貴女の方が?」
ヨルはふと、手元の傘を閉じた。
ぱらつく雨が肩にかかるが、気に留めた様子はなかった。そしてそのまま一歩近くと傘の先を彼女の顎下に添え、無理矢理に目を合わせる。
「彼を何年も見ていたのに手に入れられていなかった。それなのに私が退いたところで今更何か変わる?」
ナギサの体がびくりと揺れる。
閉ざされた傘の冷たい感触がそっと顎に触れただけだというのに、まるで銃口を向けられたような圧を感じた。ヨルの声はあまりに静かだった──けれど、その冷淡な眼差しと、容赦ない言葉の刃が、ナギサの胸を鋭くえぐる。
彼女は一瞬視線を逸らしそうになるが、唇を噛み締め、ヨルの目を真正面から見据えた。
「……変わる。変えてみせる」
その声は震えているのに、意志だけはやけに強かった。
「彼に近づけなかったのは、タイミングが悪かっただけ。貴女が現れるまでは、少しずつでも、距離を縮めていたのよ。……レオくんが、私にだけ見せてくれる顔だってあったのに」
まるで、積もり積もった想いの澱がそのまま言葉になって流れ出すように、ナギサは続けた。
「貴女が来てから……あの人は変わった。でもそれは、貴女のために無理をしてるだけ。あんなの、レオくんじゃない」
息を荒げ、濡れた睫毛を震わせながら、それでもナギサは視線を逸らさない。
「……あなたは、何も奪ったつもりがなくても、誰かからすれば“全部”を奪ってるの」
その言葉には、哀願のような熱と、底知れぬ恐れと、それでもなお諦めたくないという執着が入り混じっていた。
ヨルはそっと彼女に向けた傘を下ろす。
「タイミング、ね」
彼女が語る何の確証も無い希望論。元々優しく諭すつもりなんてさらさら無かったが、"レオが過去に彼女にだけ見せた顔"その言葉はどうにも不愉快で、僅かにかけていた己のブレーキをそっと離す。
「その変化は、彼が望んだ結果です。他の誰でもない、貴女の好きな彼自身が」
ヨルの声は、どこまでも冷淡に、どこまでも鋭い。その余裕が満ちた言葉に、ナギサは口を噤んだ。
目の前に立つ女の冷たく揺るがぬ態度。まるで何もかもが決まっているかのような余裕と静けさ。選ばれた存在だからこその強さ。それら全てがナギサには堪らなく癪だった。
「彼があなたを選んだのは、情じゃないんですか? かわいそうだと思ったとか……頼られたからとか……」
レオが選んだという事実を否定するように必死に探す言葉。その声には羨望と、憎しみと、そして痛々しいほどの自己否定が滲んでいた。
「もしそうだとして、何が変わるんですか?」
遮るような声ではなかった。けれど、その言葉の中に確かな線引きがあった。
「……っ」
ナギサの拳が、ぐっと握られる。
爪が食い込むほど強く。何を言ったって勝てない、彼女を揺るがすことすらできない、その現状がたまらなく悔しくて。喉の奥で絞り出すように、ナギサが呟いた。
「私は……ずっと必死だったのに。何年も、彼の笑った顔だけを支えにして生きてきたのに……!」
ナギサの声は、途切れ途切れだった。
濡れた前髪の隙間から覗く瞳は、どこか泣きそうで、どこか狂気を孕んでいる。
「……なんで私じゃないの。私の方が側にいて彼をずっと見てきたのに」
ヨルは黙って、そんな彼女の感情を見下ろす。
肯定も否定もせず、ただその苦しみを見ていた。
「私の方が、レオくんを幸せにできるのに……!」
声が震え、握られた拳がわなわなと震え始める。その肩は小刻みに揺れ、濡れた髪が顔に張り付いているのも気にせず、ただ一点──ヨルを睨むように見つめていた。
「……あんたさえ、いなければ……っ!!」
ナギサの身体が、まるで理性を振り払うように、ヨルに向かって動いた。
濡れた髪が揺れ、手が、ヨルの肩に掴みかかろうと伸びる──その瞬間だった。
「……触るな」
鋭い声とともに、男の腕が割り込んだ。
刹那、ナギサの手首が力強く掴まれる。
はっとして顔を上げると、そこにはレオがいた。
乱れた息。濡れた髪。肩で息をしながらも、彼の目は鋭く、ナギサを射抜くように見ていた。
雨にさらされ、シャツの裾が少し乱れている。だが、そのどれも気にしている様子はない。
──まるで、走ってきたかのように。
「誰が、誰を幸せにするって?」
低く、けれど震えるような怒気を含んだ声だった。
ナギサは言葉を失い、手首を掴まれたまま硬直する。
レオの腕は、まるで盾のようにヨルの前に差し出されていた。ヨルの肩に触れようとしたナギサの手は、決して彼女に届かなかった。
「……レ、レオくん……っ」
ナギサの声が、濡れた唇からかすれるように漏れる。
レオはそれに応えることなく、彼女を掴んだ手を乱暴に放すと──まるで「境界線を引くように」、一歩、ヨルの前へと立った。
「……お前が、俺の何を知ってる」
低く抑えられた声。
「私は……!あんな女より私の方がずっと──」
ナギサは慌てて言い訳の言葉を探すように唇を動かすが、何も出てこない。
レオの目は、その全てを拒むように冷ややかだった。
「俺が誰を見てるか、誰の隣にいたいかは、俺が決めること」
レオの言葉は淡々としていたが、その瞳は鋭く、強かった。守るべきものを前にした男の、静かな怒りがあった。
「お前がどんな気持ちでいようが、どんなに俺を見てきたつもりでいようが……それは、お前の中だけの話だ」
ナギサの顔から血の気が引いていく。
それは、僅かに残っていた彼の優しさに触れることすら許されなくなった事を示す、彼女が聞きたくなかった言葉だった。
ナギサは、その場で崩れるように力を失う。
雨がぽつぽつと、また強さを増してきているのに、彼女はその場に立ち尽くしていた。
行き場を失った視線をヨルの方へ向けると、彼女は動じた様子もなく、ただ静かに立っていた。そこにあるのは、怒りでも、哀れみでもない。まるで興味が失せたような冷めた目。まるで動かなくなった玩具をみるような。
レオは振り向かず、ヨルの方へだけ視線を向ける。その目には、怒りも苛立ちもない。あるのは、ただ“無事でいてくれた”ことへの安堵だった。一度だけ深く息を吐き、ヨルの肩へと手を伸ばす。
「……寒いだろ。中、入れ」
その言葉に、ヨルは小さく頷いた。
何も言わず、ただレオの隣に歩み寄って。