服毒

21.『鍛錬』


休日の昼下がり。
カーテン越しに差し込む日差しが、リビングのフローリングに柔らかな光の模様を落としていた。静かな空気の中、テレビも付けず、扇風機が一定のリズムで首を振る音だけが部屋に響いている。

レオはリビングの一角で黙々とトレーニングをしていた。腹筋、腕立て、懸垂。呼吸は一定に整えられ、無駄のない動作で、まるで機械のように淡々とメニューをこなしていく。

平日の職務で体を酷使しているはずなのに、それでもこうして休みの日に鍛えるのは、もはや習慣だった。自分のためであり、見知らぬ誰かのためでもある。

タオルで額の汗を拭いながら、ふと気配に気づく。視線を感じて、そちらへ目をやれば、ソファにいたはずのヨルが、いつの間にか少し距離を詰めてこちらを見ていた。静かに、でも確かに興味を持った目で。

レオは眉をひそめ、小さく息を吐く。

「……なんだ。どうした」

いつもと同じ口調。けれど、じっと見つめられるその視線には、どこか落ち着かないものを感じ始めていた。

「なんでもない」

そんな淡々とした返事。近くの床に座ると何をするわけでもなく、ただじっとレオのことを見つめ続ける。

レオはその視線を再び感じながらも、すぐには言葉を返さなかった。タオルを首にかけ、黙って次のメニューに移る。腕立て伏せ。床に手をつき、静かに呼吸を整える。

一回、二回。背中から肩にかけて流れる汗が、緩やかに落ちて床を濡らす。

だが、その横で変わらず視線を外さずにいるヨルが、気にならないはずがなかった。
トレーニング中に誰かに見られること自体は、嫌ではない。むしろ職場では日常茶飯事だ。だが、ヨルの視線は違う。探るようでいて、どこか柔らかくて、何よりその無言が落ち着かない。

二十回程度で手を止めると、息をつきながら上体を起こし、横目でそっとヨルを目をやる。

「……本当に、なんでもないのか」
その声には、普段よりわずかに低い響きがあった。焦れたような、戸惑うような、どちらとも取れる一言だった。

「なんでもないよ」

いつも通りの冷静な表情。だが彼女の視線は、まるで静かに火を灯された蝋燭のように、存在をじんわりと主張していた。

レオはその眼差しから目を逸らさなかった。
何も言わず、何も聞かず、ただじっと自分を見つめてくる――それだけのはずなのに、胸の奥が妙にざわつく。
鍛えているときはいつだって無心だ。余計な感情は脇に置いて、淡々と積み上げるだけ。それが自分の流儀だった。

だが、今の彼女の視線は、まるで自分の内側まで覗き込んでくるようで……。

「……ヨル」
筋肉の張る肩越しに声をかける。

「見られてると、...やりづらい」

その声は強くも弱くもなく、ただ正直だった。
タオルを手に取り、流れる汗を拭きながら振り返る。言葉はぶっきらぼうに聞こえるが、ほんの僅かに頬の辺りが熱を帯びている。

「そっか」

集中できないという彼の主張は受け取っても、この場を離れることには同意しない返答。
まるで何も悪いことはしていないとでも言うように、動く筋肉、耐える表情、流れる汗、その全てを変わらずまっすぐ見つめていた。

レオは息を小さく吐いた。
何も返さないというのは、つまり“ここにいる”という意思表示なのだと理解しつつ――それでも、気が散ることに変わりはない。

「……好きにしろ」

そう言って、タオルを横に置き再び床に両手をついて、腕立ての体勢に戻る。
ただ、今度は少しだけ――角度を変えた。彼女の視線からは、少しだけ顔が見えづらくなるように。

意識を集中させようとする。だが、どうしても意識の隅にヨルの視線が焼きついて離れない。背筋に浮かぶ汗、肩や腕の筋肉が静かに波打つたびに、どこか意識してしまう。

「……見てて面白いものでもないだろ」

無骨な声に、ほんの少し、照れと意地が混じる。重ねる腕立てのリズムは変わらない。ただ心拍だけが、ゆっくりと、鍛錬とは別の熱を帯びていった。

「レオが頑張ってる姿、見てるの楽しいよ」

体育座りで曲げた自分の膝に顎を乗せると、飽きない視線で見つめ続けるヨル。

「……そうか」

レオは低くぼやいた。
目線は床へと落としたまま。だがその耳の先が、わずかに赤みを帯びていくのがわかる。その声には、どこかバツの悪そうな、けれど嬉しさを隠しきれない響きが滲んでいた。

額から一筋の汗が垂れ落ちる。呼吸を整えながら、テンポを落とすと、静かに横目で彼女を見る。その瞳には、曇りのない好意が宿っていた。

……気を抜くと引き寄せられそうになる。
そんな雑念の塗れの約30分、いつものメニューをこなし終えるとレオは立ち上がり、水のボトルを手に取った。無言のまま一口飲み、喉を鳴らす。

「終わり...?」

どこか残念そうに、だが待っていたかのように訊ねるヨル。

「ああ」

汗の滲んだシャツの裾を軽く引いて風を入れながら、レオはゆっくりと息を吐いた。張った筋肉にじわりと残る火照りは、毎度のこと。だが今日はそれ以上に、じっと自分を見つめていたヨルの視線の熱のほうが気にかかっていた。

「……楽しかったか?」

からかうわけでもなく、責めるわけでもなく。ただ事実を確認するような声音で言うと、濡れたタオルを首に当てて軽く汗を拭った。
そのままソファの背凭れに手をかけ、ヨルの座る傍へと歩を進める。

静かに見下ろすと、彼女の視線は相変わらず何かを確かめるように光っていた。

「...うん」

そんな短く淡々とした返事。
だが、彼女は近づくレオの一挙一動を視界に収めながら、ゆっくりと立ち上がる。そして、視線を交えるとそっと彼の腰へと腕を滑らせ自分の身体へ引き寄せる。汗ばむ身体になんて気にも止めずに。

「……ヨル」

その腕が触れた瞬間、反射的にレオの身体がわずかに硬直する。
額に浮いた汗が一筋、彼女の頬に落ちそうになるのを慌てて拭い、苦笑を混じえながら肩へ手を添えた。

「……汗かいてるから」

思わず低く呟いた声は、咎めるものではなく、ただ困惑を含んだもの。
レオの身体はまだ熱を帯び、シャツはところどころ肌に貼りついていた。それなのにヨルは臆することなく、まるで柔らかく包み込むように自分に触れる。

その温もりに、レオは息を飲む。
抱きしめ返すでも、突き放すでもなく、ただ僅かに強張ったまま動きを止めた。

「……嫌じゃないのか」

彼女の額にそっと自分の額を預けるように重ねながら、静かに問いかける。
その真っ直ぐな声音には、ヨルを思っての慎重さと――それでも抗いきれない気持ちの揺らぎが滲んでいた。

「嫌じゃない」

困惑する表情すらも楽しげに見つめるヨル。
洗い立てのシャンプーや柔軟剤に包まれた彼のことも勿論好きだが。

「...寧ろ」

しっとりと濡れた彼の胸を布越しに感じる。指先が這うように背中をなぞり、視線を上げると首元を流れる雫に眼を細めた。

「好き」

レオの喉がわずかに上下する。

彼女の声も、仕草も、どこまでも静かなのに、じわじわと内側を焦がすような熱を持って迫ってくる。まるで逃げ場のない包囲網のように、彼の全てを追い詰めてくる。

「……おまえな」

そう呟いて、額をぐっと彼女の額に押しつけた。瞼を閉じれば、距離のなさに呼吸すら整えられない。

「そういうところ……」

言葉の端には微かな苛立ち――いや、理性を試される苛立ちと、それに抗おうとする必死さが滲む。
それでもレオはまだ、抱きしめ返さない。ただ静かに、押し殺した熱を滲ませながら彼女の目をじっと見つめていた。

「……本当に、たちが悪い」

囁く声はいつもより低く、熱を帯びていた。
ヨルの目をじっと見つめ、そこに宿る感情を確かめるようにゆっくりと視線を絡める。

「...心も身体も。その表情や匂い、滴る汗まで全部」

彼の唇すれすれで言葉を止める。

「私のものでしょ」

それはいつも彼が自分に向けるように、全てが自分のものであるという誇示。そんな彼女の瞳はレオのひとつひとつを大切そうに眺めていた。

レオの心臓が、痛いほどに高鳴る。
彼女の言葉は甘く、重く、そしてどこまでも真っ直ぐで――まるで自分が全てを包まれているかのような錯覚すら覚える。

「……ああ。全部、ヨルのものだ」

まっすぐに応える声音には、どこか降参にも似た響きがあった。彼女を想う気持ちが、すべての言葉を自然に導いた。

そして、そっと彼女の頬に唇を落とす。
額ではなく、髪でもなく、まっすぐその心に触れるように。

「好きだ」

まるで誓うように、低く、確かに――そう告げた。
< 21 / 72 >

この作品をシェア

pagetop