服毒
31.『命中』
時計の針が午後六時を過ぎた頃。
リビングのソファに背を預けていたレオ。
早番の仕事を終えて帰宅し、軽くシャワーを浴びた後の体には、心地よい疲労がじわりと残っている。
日が落ち、辺りは段々と暗くなってくる頃。
もう少ししたら迎えに行こうか、そんなことを考えていると、ヨルのマグカップがダイニングに置きっぱなしになっているのが視界に入る。
それだけで、妙に彼女の存在が恋しくなった。
——疲れている時ほど、彼女の声が、仕草が、呼吸が恋しくなる。
その時だった。
カチャリ。
玄関の鍵が回る音。
固まった時間に一筋、温度のある空気が流れ込んでくる。
がたん、と立ち上がったのは無意識だった。
ヨルの気配に反応した体が勝手に動いている。
そしてドアが開き、差し込んできたその姿を見た瞬間——彼の視線のすべてはヨルによって奪われた。
そこに立っていたのは、ヒールのかすかな音とともに姿を現したヨル。
白いシャツの胸元がわずかに揺れ、膝丈上のタイトスカート、そして艶を帯びた脚を包み込む、透ける黒のストッキングの脚。
「ただいま、レオ」
髪はしっとりと艶やかで、胸元までまっすぐに流れている。どこを切り取っても完璧なその姿。
その一瞬で、呼吸が止まった。
「……っ」
口にしかけた言葉を、飲み込む。
ただただ見惚れて、なぜか喉が乾くような感覚。
ヨルのその姿は、レオのすべての好みを塗りつぶすほどに刺さっていた。
わざとなのか、偶然なのか。
けれどそんなことは、今どうでもよくなっていた——
「どうしたの、そんな顔して」
全身を焼き付けるように眺めるレオの視線を感じ、鍵をしまう手を止めたヨル。そんな彼女に何も言わず、レオは目の前まで静かに距離を詰めていた。
レオの足取りはゆっくりだったが、確かな意思を帯びている。まるで獲物にじりじりと距離を詰めるように、一歩、また一歩と。
その格好であの時間帯の街を歩いていたのか、
誰がすれ違っても、振り返らないはずがない、
誰かの視線に触れていたかもしれない。
そんな想像をしただけで、喉の奥が焼ける。早く迎えに行かなかった事を酷く後悔するほどに。
「レオ?」
戸惑いの声が落ちるより先に、彼は腰を落としてヨルに手を伸ばしていた。
足元に手を添えて、ヒールを外す。
それだけでもう、視線が脚から離れなかった。
黒いストッキング越しに指先が触れたとき、思わず息を飲む。
柔らかくて、滑らかで、なのに布越しの質感がとんでもなく生々しい。
「……ちょっと、こっち来い」
そのままの体勢で、彼女の膝裏に腕を入れて——抱き上げる。
「えっ、」
軽く声が上ずったヨルを、そのままベッドへと運んだ。困惑した表情で静かに見上げる彼女。抵抗の意思はないが、状況が飲み込めずにただただ驚いていた。
「……ヨル」
彼女をそっとベッドの端に座らせると、自然と膝をつく。
真っ直ぐ伸びた脚、膝上までぴたりと張りついたタイトスカート。その下に透けて見える、滑らかな曲線と艶を帯びた黒。
ふだん見慣れているはずの彼女の脚なのに、まるで別人のような妖しさがある。
いや、違う。この姿のヨルだからこそ、ここまで彼の理性を破壊していた。
そして、この姿で外を歩いてきたという、それだけで彼の胸は酷く騒いだ。
「その格好……本気で我慢できない」
低く絞るような声が、思っていたよりも強く響く。指先で触れると、やわらかく、薄く、少しの圧で沈む感触。
腰を落とし、ベッドの縁に座らせた彼女の膝にそっと手を置く。そこから、太腿へ。慎重に、丁寧に撫で上げる。
「触っていいか?」
そう聞きながらも、指はすでにストッキングの温もりに軽く沈んでいた。
ヨルの答えを、誰よりも欲しながら——それを言わせたあとで、どれだけ溺れさせるかを想像していた。
彼女は少しだけ瞳を揺らして、それから静かに頷く。
その一瞬の頷きに、レオの喉が上下した。
許された。ただそれだけで、胸の奥に火が灯るようだった。
「……今日は優しく出来そうにないな、」
吐息に近い声でそう呟きながら、彼はそっと指先を滑らせる。
ストッキング越しの太腿裏に触れ、その温もりを確かめるように少しずつ圧をかけ撫で上げる。指先から、手のひらへ。掌から、前腕へ。触れる面積を少しずつ増やしていく。
柔らかく、けれどしなやかな筋肉を含んだ脚線。黒いナイロンが張り詰めるたび、ほんの僅かなきしみが耳に届く。
触れているのは布なのに、すぐ下にあるヨルの素肌がありありと想像できてしまう。
「……なぁ、ヨル」
囁くように名前を呼びながら、親指でそっと太腿の内側を撫で上げる。
「破れたら、怒るか?」
獰猛さまで感じてしまいそうな鋭い瞳。いつもの彼なら止めれば引くが、今日だけは強く押し倒してでも手に入れようとするようだった。
そんな変化を与えたのが自分であることの優越感と、真っ直ぐに求めてくる彼への愛おしさ。
「...いいよ」
ヨルはそっと目を細め、彼が望むままに手に入れることを許した。
「今度新しいの買ってね」
その一言にレオは口角を上げる。
彼女の意思で、自分の望みを許してくれたこと。それが何よりの引き金になった。
「……もちろん。何枚でも」
呟いた声は、さっきまでよりさらに低く、熱を孕んでいた。
すぐに指先がヨルの太ももに戻る。ストッキングの滑らかな手触りの下にある、熱を帯びた肌の感触。
彼女の脚に沿って、ゆっくりと指を這わせる。
そして——わざと、爪を立てるようにして薄く張った布地をひと筋、引き裂いた。ぱつり、と小さな音とともに伝線が走る。
そのほんの僅かなきっかけは、だんだんと緩やかにほどけ広がっていく。間から覗く肌が、まるで初めて触れるように瑞々しく思えた。
「……本当に破けたな」
少し困ったように言いながらも、その目はまるで獲物を捉えた捕食者のようだった。
裂け目の周囲に唇を寄せ、そっとキスを落とす。そして、あくまでゆっくりと——まるで、彼女の反応すべてを記憶するかのように——破れていく布の感触を、ひと筋ひと筋、指でなぞっていく。
「なあ……ヨル」
彼は顔を上げて、少しだけ笑う。
「……似合いすぎだ」
その声も、熱も、今夜はただ一人の彼女のためだけに。
「...こういう服が、好みなんだ?」
ヨルの表情は、彼を揶揄うように。しかしどこか嬉しそうに。
そして、足元に顔を寄せる彼を見て、悪戯に微笑むと触れていた脚を引き抜くようにしてベッドに上げる。まるでお預けだというみたいに、一度与えたものを取り上げる。
レオの動きが一瞬止まった。
引き抜かれた脚の余韻が、掌にじんわりと残っている。それは確かに”与えられたもの”だった。だが今、目の前の彼女は、それを自分の意志で奪っている。
悪戯っぽく笑うヨルのその仕草に、心がざわつく。ほんの数秒前までの熱とは異なる、鋭く痺れるような渇き。
「……おい、おまえな……」
苦く笑う。言葉とは裏腹に、声はどこか愉しげで、むしろそれが逆に火をつける。
彼女はレオの好みを知って、なお試すようなことをしている。
わかっててやってる——その自覚的な挑発に、胸の奥が静かに唸る。
レオはベッドの縁に手をかけ、彼女が座るマットレスに片膝を乗せる。そのまま真上から覗き込むように身体を近づけていく。
お預けを喰らった獣のように、けれどどこまでも慎重に、狙いを定めるように。逃げた脚を、今度は膝で挟むようにして包み込んだ。
「……逃げるな」
口が閉じると同時に、先ほど彼女が引き抜いた脚の付け根へと、ゆっくり顔を近づける。
裂け目から覗く素肌。黒い繊維の隙間に広がる柔らかい色。
「好みどころじゃない。……もう一生、俺だけのものにしたくなるくらいだ」
その声には、もういつもの理性の鎧はなかった。ただ静かに、ただ熱く、ヨルの中心へと沈んでいくように——彼は触れた。
僅かに身体が跳ねる。
彼女は眉を寄せ、自分の反対の太腿へ指を滑らすと薄いストッキングだけを小さく摘んだ。
「そんなに良いものなの?」
そう言って引っ張ると肌へ戻る衝撃で、ぱちんと艶やかな音が響く。
目の前で起きたその一連の動きにレオの息が詰まった。
「……なあ、おまえ……」
掠れるほど低くなった声で言いながら、目の奥に火が宿るのが自分でもわかる。
「そういう所が、我慢ならないって言ってるんだ」
ゆっくりと彼女の脚へと体を預けるように近づき、今度はストッキング越しではなく、指先でそっと素肌に触れた。けれどそのまま布地の上へ戻ると、わざと爪を立てるように撫でる。伝線の余韻が残るそこを、慎重に、丁寧に——けれど本能的に。
「……もう一度、破っていいか?」
見上げる瞳が真っ直ぐに彼女を見ていた。
情欲だけじゃない。心から惹かれていて、どうしようもなく愛していることが、その視線に滲んでいた。
「もうレオのものだから」
破れた場所がまるで彼の所有物であるという印かのように、彼女は自分の脚を見下ろす。
「好きにしていいよ...」