服毒
32.『破片』
ソファに座り、窓を眺めるヨル。
外は分厚い雲に覆われ、雨が降り始めている。
仕事から帰ってくるレオを待ちながら、彼女はこの家に来て間もない頃のことをひとり、思い出していた。
───
雨が降っていた。
窓の外で風が唸り、叩きつけるような雨音が室内にも染み込んでくる。まるで、閉ざされた空間をじわじわと侵食してくるように。
レオはソファに座り、読みかけのファイルに目を落としながらも、時折ふとした拍子に視線を逸らす。その先にはキッチンで静かに湯を沸かしているヨルの背中。
時計の針が小さく音を刻み、やがて湯沸かしポットが短く電子音を鳴らす。
「……雨、強くなってきたな」
ぽつりと独り言のように漏れた声。けれどそれは、ヨルへと向けられた言葉だった。
彼女の返事を待ちながら、レオはふと、窓の外に目を向ける。遠くで雷光が瞬いた。けれど、まだ音は届かない。
「そうだね、凄い風...」
窓の外へ眼を向けながらヨルは2つのカップを持って、レオの隣へ腰掛ける。
近すぎず、遠すぎない距離感。それはこのゆっくりと築き上げてきた、数ヶ月の積み重ねの証だった。
レオは、ヨルが差し出したカップを無言で受け取り、湯気の立ちのぼる飲み口にそっと口をつけた。
静かに、熱が喉を通っていく。苦みと温かさがじわりと胸に染みて、いつの間にか強張っていた肩が、少しだけ緩んだ。
「……ありがとな」
ぽつりと呟いて、小さく湯気の立つマグカップを見つめる。それは、彼女と暮らし始めて間もない頃に選んだペアカップのうちのひとつ。素朴なデザインで、特別なものではなかったが――今となっては、手に馴染む温もりが、何よりも落ち着く。
「寒くないか?」
ふと問いかける声には、わずかな気遣いが滲んでいる。
彼女の指先が、自分のより少しだけ冷たかったことを思い出しながら、彼は隣にいる彼女の表情をちらりと盗み見た。
視線を少し横に向ければ、隣にはヨル。
マグカップをローテーブルに置くと少し伸びをして眠そうにしている。
けれど、その穏やかな空気を打ち破るように。
窓の外、漆黒の夜空に、白い稲光が走る。
瞬間、目を細めるよりも早く――轟く雷鳴が、低く重く、光だけを残して夜の空を裂いた。
その閃光が、ほんのわずかに彼女の睫毛を照らした刹那。彼女の身体が、何かに怯えるように、ふっと強張った。
それは、ただの驚きの反応ではない。
もっと深く、もっと奥から、何かが揺さぶられているような――そんな気配だった。
ヨルの頭の奥に、断片的な記憶が強烈な痛みと混乱と共に押し寄せてくる。
暗い水の中。息ができない。誰かの腕が、必死に捕まえようとこちらへ伸びる。
覚えの無い、誰のものかも分からない記憶。だがそれはしっかりと自分に刻まれた恐怖の感情を呼び起こした。
「、、、っ......」
喉がかひゅっと情けない音を立てる。どんなに吸い込んでも肺が空気が取り込めない。見えているはずの現実も、記憶の波と混ざり合い飲み込まれる。
レオの手が、自然とカップから離れていた。
呼吸が乱れ、何かを噛み殺すような呻きが聞こえる。
「……ヨル?」
静かな声で名を呼ぶ。しかし彼女の瞳は、今ここにはなかった。
雨の音も、灯りの温もりも届かない場所――彼女だけが置き去りにされているような、そんな眼だった。
ふと、レオの胸に警鐘が鳴る。
ヨルが見ている“何か”は、明らかに彼女の過去に関係するもの。あの夜、月明かりの海辺で初めて彼女が目覚めたときの、あの得体の知れない空白と――同じ匂いがする。
「ヨル、しっかりしろ」
そっと、肩に手を伸ばそうとした。
だが、次の瞬間。
彼女は、まるで何かに怯えた動物のように、レオの手を強く拒んだ。
「来ないで...!」
そして――無意識のまま、近づくレオの腕を強く払う。鋭く跳ね返された衝撃が、レオの胸に鈍く響いた。
その目は、彼を見ていなかった。
まるで、レオではない誰かの影を重ねるように震えている。
「……ヨル、おまえ……何を見てる」
彼の声は低く、焦燥を滲ませていた。
だが彼女は応えない。
記憶の深淵に呑まていくように。呼吸はより早く、荒い息を殺すため自分の口元を必死に抑える両手。
レオから逃げるようにしてソファから床へ転げ落ちると、彼女は自分の身を守るように小さくなり、膝を抱えて後退る。
ローテーブルに置かれたマグカップの片方がその衝撃で倒れ、床へと転がった。入れ立てのコーヒーが広がり、硬い音と共にマグカップにはヒビが入って鋭い破片が床に散る。
「ヨル――!」
レオはすぐさま立ち上がったが、その場に駆け寄る足がほんの一瞬、止まった。
怯えきったヨルの姿が、目に飛び込んできたからだ。床に倒れ込み、肩を震わせながら身を縮めるその様子は、まるで敵に囲まれた幼子のようだった。
“違う”
自分は、彼女を傷つける存在ではないはずなのに。けれど今、ヨルにとってレオの声は恐怖を煽る何かに感じている。
その現実が、レオの胸を強く締め付けた。
「……大丈夫だ。ヨル、俺だ。……レオだ」
少し距離を保ったまま、レオは低く落ち着いた声で、できる限りゆっくりと語りかける。
急に近づけば余計に怯えさせるだけだ。そんなことは、警察官として何度も経験してきた。だが、目の前の彼女に対してその経験が役立つことに、痛みすら覚える。
距離を取ろうと下がるヨルの手が床に伸びた。
指先が、気づかぬうちに転がった破片のひとつを掴みかける――
「……ヨル、そこは――!」
間に合わなかった。
彼女の手のひらが、割れたマグカップの鋭利な欠片を強く握り込んだ。鋭い痛みが走ったはずなのに、今の彼女にはわからない。
手を床についたまま、なおも指を丸めるようにして、床をぎゅっと掴む。
深く食い込んだ破片が、掌を裂く。赤い血がじわじわと滲み出していく。
血の匂いが、コーヒーと共に部屋へと広がる。
レオの目がわずかに見開かれる。そして、ひとつ深い呼吸をすると静かに彼女へ身を寄せた。
恐怖を与えないよう、傷つけないよう、彼女の手をそっと包み込むように、自らの大きな掌を重ねていた。
「……大丈夫だ。ここにいるのは、俺だけだ」
彼女がどれだけ拒もうとしても、もう放さない。ただひとつ、彼女を守るためだけに紡がれる――静かで、真っ直ぐな声だった。
「……なぁ、ヨル。戻ってこい」
落ち着けるように、これ以上自分を傷付けないように、しっかりと抱きしめて彼女を支えるレオ。
その体温と共に優しく紡がれた言葉のひとつひとつが、ゆっくりと彼女の視界を広げていった。暫くして、ようやく混乱がほどけたように荒くなっていた呼吸が徐々に落ち着き、肩の力が抜けていく。
「...レオ...」
まだ焦点の定まらない瞳で唯一の光を探すようにヨルは彼に呼びかけた。
「……ここにいる」
レオはその声に応えるように、ヨルの名をもう一度、低く静かに呼んだ。
そして、彼女の揺れる視線を正面から受け止めるように、そっと額を寄せる。
その額から伝わる体温、震える肩にかけた腕、背中を支える手――
どれもが、「おまえはもう独りじゃない」と語るためのものだった。
「もう、大丈夫だ。誰もおまえを傷つけたりしない……俺が、絶対にさせない」
言葉に込めたのは、誓いにも似た静かな決意。
怒りでも恐れでもない。ただ、ヨルという存在を守るための強さだけがそこにあった。
レオはそっと、彼女の頭を抱き寄せる。
やわらかな髪に額を埋めるようにして、小さく息を吐いた。
「……もう、大丈夫だから」
その言葉に彼女は、ゆっくりとレオの胸に身を預けた。傷の疼きも、記憶のざわめきも、すべてが波のように静まっていく。
静かに深い呼吸を繰り返すと、彼女に現実が帰ってくる。温かく抱きしめる彼の腕や鼓動、外で響き続ける雨音、規則的に聞こえる秒針。そして、床に転がる欠けたマグカップ。
「ごめん、マグカップが...」
自分の手のひらに走る鈍い痛みより、彼のものであるマグカップの破損。彼女にとってはそちらの方が重大であるかのように口にした。
「……そんなもの、どうでもいい」
レオは、わずかに首を横に振った。
その言葉には、責める色は一切なく、ただ彼女の傷を前にした真っ直ぐな本音が滲んでいた。
「……手、見せろ」
彼はそっと身を引き、彼女の細い指を包み込むように、そっと自分の手を重ねる。
掌に走った切創は浅くない。傷口には血がにじみ、細かな破片がいくつか皮膚に刺さっていた。――だが、その血よりも、小さく震える彼女のほうがずっと痛々しかった。
「おまえが……無事ならそれでいい」
そう言いながら、レオはヨルの手を傷のないほうで支え、そっと立ち上がる。
椅子の背からタオルを手に取ると、片膝をついて再び彼女の前に戻った。
その動作ひとつひとつが、どこまでも静かで丁寧だった。
まるで壊れ物に触れるように。いや――それ以上に、大切なものに触れる手つきで。
「……痛いか?」
彼の物を壊してしまったというのに一切の怒りが見えない。まだ僅かに震える身体で、その事実に呆然とする。
「大...丈夫...」
底知れぬ恐怖が目の前から消えた安心か。どこまでも献身的に支えてくれるレオの優しさを感じたか。はたまた、その手に突き刺さる痛みのせいか。
その理由は彼女自身にも分からなかったが、言葉と共に瞳からは一粒の涙が零れ落ちる。
レオは、その雫が落ちるのを見逃さなかった。
無言のまま、そっと彼女の指先を包み込む手に少しだけ力を込める。
声もなく落ちたその涙は、痛みを訴えるどんな悲鳴よりも重かった。
「……大丈夫なわけ、ないだろ」
低く、掠れた声。
それは彼自身の胸奥を刺す痛みから滲み出たものだった。
彼女が恐怖に呑まれ、苦しみ、傷ついたその一部始終が、今も脳裏に焼きついて離れない。
「こんなになるまで……どれだけ怖かった」
彼女の髪の間に落ちる視線は、どこまでも優しく、どこまでも哀しげだった。
指先についた血をそっとタオルで拭いながら、レオはそのまま、手を離さない。
「もう大丈夫だ。……おまえは、ここにいる。俺のそばに」
低く抑えた声でそう呟くと、傷口に残る大きな破片だけを静かに取り除いた。
「だから……頼むから、自分のことを、後回しにするな」
手際よく応急処置を済ませると、彼女の目をただ真っ直ぐに見つめる。その目元に宿るのは、怒りではなく――ただ、深い悲しみだった。
その言葉にどう返したらいいのか。その答えをまだ持ち合わせていない彼女は、そっと手元に視線を落とす。
「...ありがとう、レオ」
その小さな声に、レオは優しく微笑んだ。
不器用に、だが確かに返されたその言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
「……ああ」
短く返したその声には、どこか抑えきれない想いがにじんでいた。