服毒

33.『服毒』


静寂に包まれた夜の部屋。カーテンの隙間から洩れる街の明かりが、壁にぼんやりと影を落としていた。

寝具の中、互いの体温が触れ合う距離で並んでいるはずなのに、隣の気配が妙に落ち着かない。布の擦れる音がして、レオはゆっくりと目を開けた。

ヨルがまた寝返りを打ったのだとわかる。背中越しに伝わってくる微かな緊張と、呼吸の浅さ。眠ってなどいないとすぐに察した。

しばらく黙っていたが、そっと目を細めて、隣の影に問いかける。

「……ヨル。まだ起きてるのか?」

声はいつもより静かで優しい。レオは腕を動かし、そっとヨルの背中に手を添えた。

「……何か、あったのか」

深夜という時間のせいか、それとも彼女の沈黙のせいか、問いかけにはほんの少し、不安の色が混じっていた。

「...レオ」

暫く間が空いた後、ヨルは彼の問いかけに答えるように静かに彼の名前を呼んだ。それは酷く脆いガラス細工のような声。

レオはその声に、無意識のうちに胸の奥がざわつくのを感じた。弱さを見せることの少ない彼女が、こんなふうに頼る声を出すのは――何か、深く心を揺らしている証拠だ。

「……どうした」

それだけ言って、レオはゆっくりと身体を傾け、ヨルの方へと向き直る。

暗がりの中でも、彼女の顔を確かめるようにそっと目を凝らした。

「ヨル?」

問いかける声は優しく、けれど力強い。
彼は手を伸ばし、ヨルの手の甲に優しく触れた。彼女の冷えた指先に、自分の体温を分けるように。

「レオ、」
彼女は触れられた彼の手に自分の頬を寄せ、繋ぎ止めるようにして自分の反対の手を重ねる。

「...私がどれだけ歪でも、きみは変わらず愛してくれる?」

そう僅かに震える声で伝えると、縋るような瞳で真っ直ぐにレオを見た。

普段の彼女からは想像もつかないほど、脆く、切実な声。けれどそこに滲んでいたのは、ただの不安や迷いじゃなかった。
もっと深く、冷たい底に沈んでいくような――“歪さ”の自覚。

彼女の瞳を見つめ返しながら、レオは静かに言葉を選ぶ。頬に触れる手の温度を、重ねられた指の重みを逃さないように。

「……愛してるよ、ヨル。おまえがどんなに歪んでいようが関係ない」

わずかに目を細めて、触れた頬をそっと撫でる。

「それを理由に手放すくらいなら、最初から触れてない」

それが彼の、本心だった。
正しさや常識よりも、彼にとっては“ヨルであること”がすべてなのだ。たとえ、その愛が狂気だったとしても。

「レオは優しいね」

そう言うと彼女はレオに微笑みかけた。だがそれはいつもの優しい表情ではなく、距離を取るような仕草。

「いつも私が傷付かないように守ってくれる」
憂いを帯びた声でそっと彼の手を振り解く。

レオの眉がわずかに動いた。
微笑みながら手をほどく彼女の仕草が、まるで――拒絶にも似ていたから。

「……何が言いたい」

低く、掠れた声が漏れる。
けれど怒りではない。
ただ、胸の奥を冷たい手で掴まれたような感覚がした。

シーツ越しにわずかな距離が生まれる。
だがレオはそれを埋めようとはせず、彼女の言葉を待った。

「私はきみと違うんだ。レオ」

小さく吐いた息は彼に届く前に消える。彼女はそっと顔を上げ彼と視線を交えると、もう一度その顔に笑顔を浮かべた。

「...私はきみが傷付いている方が好き」

それは淡々と告げられる。真っ直ぐ見つめるその奥には、甘く絡める毒のような深い感情が眠っていた。

「きみが、私を求めて必死に踠いているのが、...何よりも好き」

レオの呼吸が、一瞬止まった。

それは静かな夜の部屋が、音を立ててひび割れるような感覚だった。

「……ヨル、」

呼びかける声は慎重で、まるで目の前にあるものが壊れてしまわないようにと願うかのようだった。

だが彼は目を逸らすことはなく、まっすぐに彼女を見つめ返す。その眼差しの奥には、戸惑いもある、混乱もある――だがそれ以上に、強い意志が宿っていた。

「それが……おまえの本音なら、隠さなくていい」

絞り出すように、静かに言う。
すぐに答えは出せない。だが彼は、拒絶することもなかった。

「……全部知っても、俺はおまえを選ぶ」

彼の声が、確かに届くように。
そして、もう一度そっとヨルの手に触れた。
まるで凍てついたその心に、もう一度ぬくもりを注ぐように。

「...きみが私のために壊れてしまえばいいって思ってる」

触れられた手を、逆に彼の腕へ這わせるように伸ばすヨル。そして、彼女が手を止め優しく触れたのは彼の首。彼の脈動、そのひとつひとつを感じるようにヨルの冷たい手のひらが包み込む。

「私のために泣いたり、苦しんだり。そんなレオをずっと見ていたい」

レオの背筋に、ひやりとした感触が這い上がる。

それはヨルの手の冷たさだけじゃない。
彼女が紡いだ言葉が、彼の心の奥底にまで届いて、何か大切なものをじわじわと締めつけてくる。

「……ヨル……」

その声は、震えていた。怒りや恐怖じゃない。
ただ、深くて底の見えない想いに呑み込まれそうになっている――そんな、切実な揺らぎだった。

だが、ヨルの手を拒むことはしなかった。

レオはゆっくりと彼女の腰に腕を回し、引き寄せる。
彼女の冷たい指先が自分の鼓動を感じているなら――自分も、彼女の冷たさをそのまま抱きしめる。

「……俺は今、正直怖いと思った」
喉を通る言葉は、苦しくて、重たくて、それでも彼は続けた。
「だけど……その全部ひっくるめて、俺は……おまえがいい」

そして、彼女の額に自分の額をそっと重ねる。

「壊されてもいい、なんて言ったら。駄目か?」

口元だけで、少し笑った。だがその瞳は、深い覚悟を宿していた。

彼の言葉にヨルは震える呼吸をひとつ吐く。

その刹那、身体を起こすとヨルは彼の上に馬乗りになった。首元に添えた手はそのままに、少し体重をかけて抑え込む。

「...レオ...」

その声は酷く震えていた。
見つめる眼は瞳孔が開き、まるで獲物を見るように鋭く冷たい。

「嫌だって、言って...」

口から漏れ出す息を押し殺すようにゆっくりと、何度も呼吸を繰り返す。

レオは見上げた。

暗い部屋の天井越しに、ヨルの影が彼を覆っている。その細く冷たい手が、自分の首に確かに触れている。
押し込まれた重みも、呼吸のひりつきも、全部――現実だ。

けれど、それでも。

「……嫌、なんて言わない」

レオの声は低く、掠れていた。だが、強く。迷いはなかった。

「おまえが、どんなに歪んでても……どんなに冷たくても……」

彼はゆっくりと、首にかかる手の上に自分の手を重ねる。拒絶じゃない。受け入れるように、包むように。

「それでも、俺はおまえを離さない」

呼吸が浅くなる中で、なおも穏やかに言葉を続けた。その目には、ただ彼女だけを見据える確かさがあった。

「...レオ...」

もう一度ヨルは彼の名前を呼ぶ。荒くなった息は肩を揺らし、指先に力が籠る。

真っ直ぐに見るその瞳に映るのは、甘さでも脆さでもない。もっと深く、冷たい水の底に沈むような、そんな感情の色。

けれど彼は動じなかった。むしろそのまま、静かに――そっとヨルの頬に手を伸ばした。

「ヨル」

名前を呼ぶその声は、どこまでも優しい。

「……おまえを愛してる」

首にかかる圧は、確かに息を奪う。だがそれでも、彼は微かに笑った。

「俺の全部は、おまえのものだろ」

彼の手のひらが、ヨルの震える頬を撫でる。
優しくて、温かくて、逃げ場のないような包容。

「だから……そんな顔、するな。ヨル」

言葉の奥にあったのは、狂気に似た執着ではなく、ただただ深く静かな覚悟。
失うことを怖れ、何もかも抱き締めようとするその手は――あまりに、優しかった。

「なんで......」

その時、彼女の瞳が揺れた。
首に置かれた手から僅かに力が抜け、代わりに彼の頬がヨルの涙で濡れる。

「...このまま、きみを殺してしまいたい」

それが彼女の奥に眠る本心。その命でさえも奪って自分のものにしてしまいたい。そんな歪んだ愛情。

レオはその涙を受け止めながら、瞬きひとつせずにヨルを見つめていた。
その言葉に怯えるでも、怒るでもなく——ただ、悲しげに、静かに。

「……そうか」

低く押し殺した声が、喉奥から絞り出される。
ヨルの手がまだ首にあるにもかかわらず、レオはその手に、そっと反対の手も重ねた。

「おまえが望むなら、殺されてもいい」

そう呟いた声には、かすかな震えがあった。
けれど、それでも揺るがないものが宿っている。

「俺は……それでいい」

喪失を恐れて、抱えて、生きてきた彼が。
自分をすべて差し出してでも、ヨルの狂気に応えようとする。
それはどこまでも温かく、どこまでも哀しい愛だった。

「でも――ヨル、おまえは、本当にそれで満たされるのか?」

そっと首元の手を引き寄せ、自分の胸元へ。
トクン、と静かに脈打つ心音を聴かせるように。

「壊しても、俺の想いは消えない。むしろ、もっと深く、おまえの中に残る。そうしたら……おまえは、きっと苦しむことになるだろ」

どこまでも穏やかで、優しい声だった。
それは彼の根幹にある、誰かを守りたいという”温もり”そのものだった。

「優しくしないで...」

溢れる涙は止めどない。彼が言葉を届けるたびにヨルは苦しそうに涙を流す。

「嫌いだって、もう触れるなって....そう言って拒絶して、......」

荒く早い呼吸で、もう辞めてくれと言わんばかりの表情を浮かべていた。彼の優しさがまるで自分にとっての毒であるかのように。

レオの表情が、ほんの僅かに歪む。

痛みではない。怒りでもない。
けれど、胸の奥で確かに何かが軋む音がした。

彼女の震える声、溢れる涙、そのひとつひとつが、刃のように心を裂いていく。
けれど、それでも彼は目を逸らさなかった。
ヨルの全てを、抱えるように、噛みしめるように、じっと見つめ続ける。

「拒絶なんか、できない」

低く、ひとつ息を吐いた。
苦しげな音に紛れるようにして、言葉を吐き出す。

「おまえがどれだけ歪んでても、狂ってても、俺は……その全てを愛している」

そっと腕を伸ばし、馬乗りになったヨルの背に触れる。その震えた身体を、そっと引き寄せるように抱き締めた。

「……だからもう、自分を責めるな。俺の愛し方も、おまえの思うほど綺麗じゃない」

その言葉には、どこか諦めに似た優しさが滲んでいた。自分自身もまた壊れていることを、認めるように。

「...レオ」

それはまるで水面に落ちた雫のような声。
彼の名を呼ぶヨルは、心底苦しそうで、息をするのでさえ難しいというような表情を浮かべていた。

「ヨル」

レオは、その声に応えるように小さく頷く。

抱きしめたヨルの背が細かく震えているのを、腕の中で感じながら。苦しみに潰されそうな声も、泣きじゃくるその姿も、どうしてか――美しく見えた。

「俺は……おまえから、逃げない」

彼女の壊れかけた愛情ごと、自分のなかに飲み込むように。優しさでも、正しさでもない。もっと原始的な、執着にも近い愛で。

レオはそっと身体を起こすと頬を寄せ、彼女の額に唇を触れさせる。
ただ静かに、慈しむように。

「愛してる、ヨル」

小さな囁きが、まるで深い毒のように彼女の耳に降りる。

「レオ...」

どんな刃も納めてしまう彼の優しさに、どうしようもなく縋り付くような声。

「きみの一番醜い部分、...私に見せて」

彼女はそう言うとゆっくりと全身の力を抜き、仕舞いには完全にレオへと身体を預けた。それは受け入れてくれる彼を試すように、そして自分の愚かさを確かめるように。

レオは、ヨルの全てを受け止めるようにそっとその身体を抱き締め直し、息を詰めるように一瞬だけ身体を固くした。彼女の重さは言葉にならないほどの感情がそのまま乗っているようで、まるで壊れ物を扱うように背を撫でる。

彼女の髪に顔を埋めながら、苦く笑った。
その胸の奥には、言葉にしきれない感情が溢れてくる。

「一番醜いところ、か」

囁く声は低く、感情を押し殺しているようで、それでもどこか熱を孕んでいた。

「おまえが誰を見たのか、誰と話したのか、誰に触れられたのか、それだけで……頭の中が真っ黒になる」

喉の奥で噛み殺したような声。
それは彼の奥底に封じていた渇きの形。

「笑っていて欲しいと思いながらも、おまえの全部奪って閉じ込めてしまいたい」

囁く声がだんだんと低く、深く沈む。

「……どれだけ縛っても、縋っても、奪っても、それでも足りない」

その声は震えていた。
彼女に触れた指がまるで罪を自覚するように、ヨルのやけにゆっくりと頬を拭った。そしてそのまま名残惜しげに彼女の涙の跡をなぞる。

「俺はそれを”愛してる”なんて言葉で誤魔化して、守っているような顔してるだけだ」

レオは息を吐き、自嘲気味に笑った。

彼の目が、彼女を見下ろすように細められる。
その瞳には、確かに狂気と愛が同時に宿っていた。そしてその愛情は、彼女の絶望さえも抱きしめる形で深く、底知れない熱を帯びていた。

「……それでも、おまえが泣くのだけは、見たくなかった」

腕に抱くヨルのぬくもりを、指先に焼き付けるように強く抱きしめる。

「それが、俺の――一番醜いところだ」

彼の声は低く、内側から滲むように熱を孕んでいた。

そんなレオの答えに、ヨルは彼の背中を抱きしめ返した。今まで見捨てて拒絶して欲しいと言っていたのが嘘のような、そばを離れないで欲しいと必死に縋る手。

「この先もずっと一緒に、」

そう耳元で囁くと僅かに身体を離し、彼の眼を真っ直ぐに見つめる。

「...堕ちてくれる?」

レオは静かに息を呑む。
その問いかけは甘く、残酷で、美しく、恐ろしかった。そんな甘美な罠を囁かれながら、彼は迷いなくその瞳を見返す。
ヨルのその問いの奥にある絶望も、愛も、執着も――全部分かっている。

分かったうえで、彼はもう戻れないところまで来ていた。

「……おまえと一緒なら」

そう言った声は、どこか諦めにも似た安らぎを含んでいた。自分の中にある倫理や常識なんて、彼女のためならどうでもよくなっていた。

「望む場所まで、どこまででも」

そう言って、頬にかかった彼女の涙を指先でそっと拭うと、そのまま両手でヨルの顔を包み込む。まるでこの世でただひとつのものを守るように、深く息を吸い込みながら囁いた。

「堕ちた先が……地獄でも構わない」

言葉を閉じると、彼はヨルの頬に手を添えたまま、そっと唇を重ねた。
それは優しさではなく、選び取った狂気への契印のような、深く確かな口づけ。まるで二度と離さないと誓うように。

「だからもう、泣くな...」

唇を離した直後のその声は、濡れたように掠れていた。けれど、ひとつとして迷いはない。ただ、彼女の愛を――その歪さも毒も、全て飲み干してなお愛おしいと、そう思える自分がいた。

「...ありがとう、レオ」

本当に自分の全てを受け止めきってくれた彼へ、より深い口付けを返しながらそっと感謝をこぼす。

「愛してる」

殺してしまいたいほどに歪んだ甘い毒と、それさえも包み込む深い毒。互いに飲み干し、堕ちていった、そんな夜だった。
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