服毒
34.『束縛』
夕方、雨上がりの灰色の空の下。
救急車のサイレンが遠ざかる中、レオは一人、現場に立ち尽くしていた。
事故車は中央分離帯に突っ込み、大破していた。フロントは原型を留めず、車内のガラスは散乱し、血痕の跡がまだ生々しい。
「……クソ」
誰にも聞こえない小さな声が口を突く。
特別な事故じゃない。日常的に起きる、ただの交通事故だ。
だが、車体の潰れ方が――その色が――どこか、かつての記憶と重なっていた。
気づけば指先に力が入っている。手袋越しに爪が食い込むほど、拳を握っていた。
もう、あんな思いはしたくない。
そう思っているのに、あの時の感覚が身体の芯にこびりついて離れない。
喉の奥に何かが詰まって、息がしづらい。
だが、周囲に他の隊員の姿が見えれば、すぐに表情を引き締めて動き出す。
――そのまま、仕事は終わった。
現場報告も終えた。署の灯りを背にして、自宅への帰路に着く。
家に戻る頃には日も完全に落ち、空気はひんやりとしていた。
靴音を忍ばせるように玄関を開けると、あたたかい光と、変わらぬ日常の匂いが迎えてくれる。
「……ただいま」
そう呟く声は、どこか微かに掠れていた。
「おかえり、レオ」
玄関先には出迎えてくれる、いつもと変わらないヨルの姿。少しぐったりした様子のレオを見て、仕事で疲れたと思ったのか、何も言わずにそっと抱き締めてあげる彼女。
「ごはん、できてるよ」
一緒に食べようと柔らかく微笑むと先にリビングへと移動する。
レオは抱きしめられた瞬間、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
温かい体温、変わらない香り、穏やかな声――それが、今日一日ずっと張り詰めていた神経を静かに溶かしていく。
「……あぁ。ありがとな」
くぐもった声でそう返して、ゆっくりと靴を脱ぐ。
足音も立てずに、ヨルの後ろ姿を目で追いながらリビングへと続いた。
食卓にはいつものように、彼女が丁寧に用意した料理が並んでいた。湯気の立つ器に、ふと心が落ち着く。
だが、それでも――どこか落ち着かない感覚が残っていた。
口にした味噌汁の温度すら、現場で見たあの光景を完全には拭い去れない。
食事を終えて、片付てくれているヨルを見ながら、レオは黙ってソファに腰を下ろす。
背を預け、息を吐き、無言のまま天井を見上げた。
「……ヨル。ちょっとだけ付き合ってくれないか」
そう言って、手元の棚からウイスキーのボトルとグラスをふたつ取り出す。
彼女の横に座りながら、ひとりで飲む気にはなれなかった。
「おまえも飲むだろ?」
グラスを差し出しながら、レオは彼女の目をまっすぐに見つめていた。
どこか、何かを測るように。
「...うん」
正直お酒は得意な方ではなかったが、彼の様子に何かを察してただ頷いた。食器の後片付けを終えるとレオの隣に静かに腰掛ける。
「何か嫌なことあった?」
グラスに注いだ琥珀色の液体を軽く傾けながら、レオは数秒、黙っていた。
まるでその問いを飲み下すように一口だけ口をつける。舌の奥に残る火のような熱が、妙に心地よくさえあった。
「……ああ」
短く返した声には、どこか乾いた疲れが滲んでいた。
「今日、現場で……事故車を見たんだ」
グラスを唇に運び、苦い液体を流し込む。
「……運転手は即死だった」
そこで言葉を切り、息をつく。
低く絞るような声は、淡々としているようで、その奥に潜む感情が隠しきれていなかった。
指先がわずかに震えていることを自分でも気づいていたが、抑えきれなかった。
「……ヨル。おまえがこうして側にいてくれるのに、今日はそれでも不安が消えない」
視線を彼女に向け、少し困ったように笑った。
その声は、かすかに震えていた。
強さの裏に隠された、深く静かな恐れが滲んでいた。
「情けないな」
そう吐き捨てるように呟くと、視線はグラスの中へ。琥珀色の液体がわずかに揺れている。
その表情には、どこか怯えにも似た、不安を押し殺す色が滲んでいた。
ヨルはそっと彼のグラスに手を重ねるとテーブルへ置くよう促す。そのまま彼の視線が上がると同時に優しく抱きしめた。
「怖かったね」
それはまるで子供をあやすかのような声。自分の胸元へ引き寄せ、頭から背中まで何度も落ち着けるように撫でる。
レオは、最初その抱擁にほんのわずかに身体を強張らせた。だがヨルの手が背をなぞるたび、強ばっていた筋肉が少しずつほぐれていくのを感じた。
「……子供みたいだな、俺」
ヨルの胸元に顔を埋めたまま、苦笑混じりに呟く。だけどその声は、情けなさでも自嘲でもなく、ただ静かな安心に滲んでいた。
彼はそれ以上何も言わずに腕を回し、そっとヨルの腰に触れる。ぬくもりが、確かにそこにあることを確かめるように。
だが、心の奥にはまだ、わずかな揺れが残っていた。——今この手にあるものを、いつかまた失ってしまうんじゃないかという、不安の残り火が。
「……ヨル」
そのまま、小さく彼女の名を呼んだ。声の奥にあるのは、言葉にできない焦がれるような想い。
ほんの少しだけ、縋るような音だった。
「どうしたの、レオ」
静かにただそっと彼の呼びかけに応える。
レオはすぐには答えなかった。
彼女の腕の中でしばらく黙ったまま、鼓動の音に耳を傾ける。けれどその沈黙は重苦しいものではなく、言葉にするための時間だった。
やがて、彼は顔を少しだけ上げる。
まっすぐに彼女の目を見つめながら、小さく息を吐いて口を開いた。
「全部なくしたときの感覚が、消えなくて……」
言葉を切ると、唇を強く噛む。
自分でも情けないくらい、今もあの記憶に引きずられていることが悔しかった。
「ヨルがいなくなったらって、そんなことばかり考えてた」
彼の声は、深く低く、震えていた。
不安を隠そうともせず、ただヨルにだけ打ち明けるその言葉には、痛いほどの真実が滲んでいる。
「ねぇ、レオ」
今度はヨルの方から静かに呼びかける。
「...こんなに脆くなるのに。どうして私を縛らないの?」
背中を撫で続けるその手の優しさは変わらないが、彼女の瞳の奥にはいつか見た、あの冷たさが見え隠れしていた。
レオはその言葉に、ぴたりと動きを止めた。
その一瞬、彼の全神経が“縛る”という言葉に向けられた。その問いがただの比喩でないことを、彼はすぐに悟る。
腕の中にあるぬくもりは確かにヨルのものなのに、彼女の声には底の見えない深さがあった。
背筋に小さく戦慄が走る。それでも目をそらさずに、彼はゆっくりと顔を上げた。
「……どういう意味だ、ヨル」
問いかける声は低く、けれど決して責めてはいない。ただ、彼女の本心を知ろうとするように、まっすぐな声音だった。
「なんで……そんなこと、」
そして、静かに目を伏せる。
その肩に滲むのは迷いだった。
縛れば、彼女の自由を奪ってしまう。彼女にはいつも笑っていて欲しいからそんなことはしたくない――だがそれを望む醜い部分がレオの中にあるのも隠しようのない真実だった。
「私が消えそうで不安なら、安心するまで捕まえておけばいい」
淡々とそう言う彼女の瞳には、底知れぬ深さがあったが、それでもただレオだけを見つめていると言う事実は変わらない。
「……私は、レオのものだよ」
彼女の手が下へ滑り、レオのベルトの金具に触れる。慣れた手つきで静かに外すと滑らせるように引き抜いた。
「君が望むなら、私に自由なんていらない」
そして静かに囁くと、そのベルトを預けるように彼の手へと渡す。レオの指先が、そのベルトに触れた瞬間――まるで冷たい水の中に手を差し込んだような感覚が走った。
革の感触。重さ。
そしてそれ以上に、ヨルの瞳が静かに投げかけてくる“信頼”と“服従”のようなものに、息を呑む。
「……本当にそれでいいのか?」
問いはする。だが、その声にはもうほとんど答えを求める力はなかった。
ヨルの意思は、揺るがない。彼女はどこまでも、自分という存在を委ねようとしている。
レオは、ベルトを握り締めたまま一拍の沈黙を置くと、そっと立ち上がった。
そしてヨルの手を取り、ゆっくりとベッドへ導く。
「手、貸せ」
短く、命じるような声。
彼女の手首をそっと取ると、ベッドの柵へ巻きつけるようにして固定していく。
――これは本当に、彼女の望みなのか。
ベルトを締めながらも、その手は慎重で、どこか躊躇いがあった。
それでも、離さなかった。離せなかった。
「……消えるぐらいなら、」
その手首に巻かれたベルトの最後の穴に、確かに金具を通した瞬間、レオは低く言った。
「俺がおまえを縛っておく」
絞り出すように出した声で。
彼の胸の奥で、彼女の冷たい愛と、自分の温かな恐れが、静かにせめぎ合っていた。
「それでいいよ、レオ」
彼女はそんな彼を安心させるように、優しく、甘く微笑んだ。まるで意図して地獄へ誘い込むように。
「もっと縛って。動けなくして。どこにも逃げられないんだって、きみに証明してほしい」
それが私たちにとっての"正解"だと。そんな風にヨルは笑いかけていた。
レオの喉がかすかに鳴る。
その笑み――狂気と甘さの均衡を保った、どこまでも危うい微笑みに、胸の奥が軋む。
「ヨル、おまえは……」
静かに吐き捨てるように言いながらも、レオの手は止まらない。
革が擦れる音。
肌に食い込むほどではないが、確かに「動けない」と感じる拘束。
その全てがレオの渇望するものだと、ヨルは知っている。そしてレオもまた、今、目の前の彼女に自分自身を刻み込んでいる自覚があった。
彼の指先は一瞬、迷ったように震えた。
だが、次の瞬間――その手はヨルの頬に触れる。指先で彼女の全てをなぞるように。
「逃げられないのは……俺の方だ」
レオの声は低く、熱を帯びていた。
彼の言葉に柔らかな笑みを落とすと、彼に繋いだ見えない鎖を引くようにゆっくりと眼を細める。
「でも、安心するでしょ」
それは彼の全てを見透かしたような言葉。彼女を繋いで、そして自分自身を繋いで。互いに自由を奪われた関係性。
「...きみは今のこの現状が嫌じゃない、そうだよね」
レオの肩がわずかに揺れた。
彼女が僅かに動く度、音が脳裏へと焼き付く。ベルトの擦れる音、柵に当たった金具のかすかな衝撃。
まるで「支配」と「従属」が形を成したようなその音が、身体の奥に入り込んでくる。
レオは、ヨルの視線から目を逸らさなかった。
彼女の微笑み。その言葉。その問い――どれもが理性の奥底にある“欲”を暴き立てる。
「ああ……嫌じゃない」
そう答える声は、少し掠れていた。
けれど確かにそこには迷いはなかった。
「全部、俺のものだって証明したくなる」
絞り出すように吐いた言葉は、レオ自身の理性を蝕むようで。
それでも――目の前のヨルだけは、ただ静かに、心底嬉しそうに笑う気がしていた。
だからレオはもう一度、彼女に手を伸ばす。
縛られ、自由を奪われたその身体に、ひどく優しく――けれど決して逃がさぬように。
腕の中に、閉じ込めた。
「...ねえ、レオ」
互いの呼吸が、心音が、全てが聞こえるような距離で、ヨルはレオに呼びかける。
「私あの夜レオに言ったよね、苦しんでる君が好きだって」
それは彼女に眠る甘い毒を飲んだ日。自分のことだけを考えて、苦しく踠く様を見ていたいと、そう告げた夜。
「今、すごく幸せ」
レオは彼女を見つめ返すしかなかった。
狂気と愛情の境界を溶かすようなその微笑みが、酷く胸の奥を焼いた。目を離せなくなる程に美しい。そして――恐ろしいほどに、愛しい。
喉の奥が詰まるような感覚の中、レオはかすかに眉を寄せながら、彼女の頬に指を這わせた。
触れるだけで、体温が伝わる。息遣いが肌に染みこむようだった。
「……おまえが、そんな顔で笑うから…」
思わずこぼれた言葉は、自分でも制御できなかった。胸の内に込み上げるのは、怒りでも、悲しみでもない。どうしようもなく、抗えないほどの“欲”。
「俺は、おまえを愛してることが、怖くなる」
それでもレオは、その首筋に唇を落とした。
噛みつく寸前で止めて、ただ、熱を残すように触れた。
まるで、この狂った関係すら守りたくて仕方がないように。
「好きだよ、レオ」
それは初めて2人が結ばれた時と同じ、純粋で真っ直ぐに伝えるための言葉。
「他の誰も見えなくなるくらい、私の中にきみを刻み込んで」
そして、逃げ場を与えない一途な愛の言葉。
レオの手が、ヨルの頬を包む。
その指先がかすかに震えていた。彼女の言葉は、静かに、けれど確実に心の奥底まで届く。胸の奥に巣食う焦燥と、誰にも譲れない執着が、じわりと滲んでいた。
「……おまえ……」
言いかけた言葉を飲み込んで、代わりに彼女の腰を掴む。
無理やりじゃない。けれど、逃がさないという意思だけは滲んでいた。
「……誰にも、見せたくない。こんな顔、こんな声……全部、俺だけのものだ」
吐き出すように言った声は低く、微かに熱を帯びていた。そのまま彼女を見下ろしながら、首にかかるネクタイを焦らすようにゆっくりと緩める。
その瞬間のレオの目は何よりも深く、冷たく、そして愛しさに満ちていた。まるで彼女のように。
「もう逃がさない」