服毒
39.『熱中』
窓越しの陽射しがカーテンの縁を焼いていた。
外はまだ初夏にも関わらず、真夏のような気温。テレビからは「こまめな水分補給を」と注意を促すニュースキャスターの声が流れている。
リビングのエアコンは控えめに動いているものの、どこか空気がじっとりと重たく感じられた。そんな中、寝室からリビングへ現れたレオは、首元からシャツを引きながら、うっすら汗ばんだ額をタオルで拭っている。
「……暑いな。もう夏みたいだ」
短くぼやいて、冷蔵庫からボトルを取り出すと、ぐいと喉を鳴らして水を飲む。
腕には、先ほどまでしていた筋トレの名残が残り、肩で息をするたびに体温が滲むようだった。
ソファの端に座っていたヨルが、レオへちらりと目を向ける。
「熱中症に気をつけて、だって」
まだそんな季節には早いと思っていたが、室内でも公務中でも身体を動かすレオには身近な危険。彼女はテレビを控えめに指差すと、注意するように伝えた。
「……熱中症、か」
レオは言われたとおりテレビに視線を移し、もう一度その単語を口にした。
ニュースでは、すでに初夏の気温が高齢者や子どもに及ぼす危険性について、繰り返し報道されている。
その声に重なるように、氷の音を立ててグラスに水を注ぎ、もう一口、喉に流し込んだ。
「確かにな……室内のほうが油断しやすいから、おまえも気をつけろよ」
そう言いながら、彼は額をもう一度タオルでぬぐった。その仕草を見ていると、ヨルの瞳の奥がすこし愉しげに揺れる。まるで、何かを思いついたかのように。
「ねえ、レオ」
ヨルはソファから立ち上がると彼の近くまで寄り、身長差による僅かな上目遣いで見つめる。
「"熱中症"、もう一度ゆっくり言って」
レオの手が止まり、グラスを持ったままヨルを見る。不思議そうに目を細めて、少し眉を寄せた。
「なんだ急に……」
首を少し傾けながらも、彼女の真剣そうな顔に押されるように、気の抜けた声で繰り返す。
「……ねっ、ちゅう──……」
言いかけて、ふと彼女の口元に目をやった瞬間、視界に映る口角がほんの少し持ち上がっているのに気づいた。
「……おまえ、それ、わざとだな」
手に持つグラスの中の氷がカランと音を立てた。
レオの耳がうっすら赤くなる。
彼女の掌に転がされているような気配を感じつつも、彼は苦いような、どこか照れたような溜息を吐いた。
「耳、赤くなってるよ。何想像したの?」
想定通りだとでも言うようにヨルはもう一歩近づくと、彼を覗き込むようにして意地悪な笑みを浮かべる。
レオは目を細めて、睨むように彼女を見返した。だがその視線には怒りではなく、明らかな困惑と照れが滲んでいる。
「……おまえな。そういうこと、どこで覚えた」
グラスをテーブルに置いて、汗で湿ったTシャツの裾を無造作に引っ張りながら息を吐く。
近づくヨルの気配に肩がわずかに強張り、それでも彼女から目を逸らすことができない。
「……からかって楽しいか」
そう言いながらも、表情にはどこか嬉しそうな色が浮かぶ。
照れ隠しに口調は硬いが、その奥にある感情は隠しきれていなかった。
「ただ、ゆっくり言って欲しかっただけだよ」
まるで手のひらの上で転がすように。ヨルは手を伸ばすと彼の鼻先をツンと人差し指で触る。
「揶揄ってなんかない」
レオは鼻先に触れた指先をじっと見つめ、眉を寄せる。
そのまま何かを押し殺すように短く息をつき、ふいに距離を詰めた。
「……なら、なおさら」
彼は片手を伸ばし、ぐっと力を込めてヨルの手首を掴む。そして、彼女を静かに追い詰めると肩越しの壁に手をついた。
湿った熱気と、汗の匂いがすぐそこにある距離。
「……タチが悪いな」
少し掠れた声。
レオはそのまま顔を近づける。唇に届く寸前というところで、彼女の言葉に動きを止めた。
「...意地悪したから、拗ねちゃった?」
突然の行動にほんの少し目を見開いたが、それでも彼女の笑顔は崩れていなかった。首を傾げ更に煽るように一言。
「拗ねたんじゃない。……我慢の限界なんだ」
レオは低く呟いた。
額を寄せるほど近づけば、ヨルの瞳が揺れるのがはっきりと見える。
ただ、それを確かめるように見つめながらも、まだ触れようとはしない。
「煽り過ぎだ」
壁に添えた手に力がこもる。
まるで逃す気はないと言うように彼女の手首を離さずにいた。
「……少し静かにしろ」
そう言いながら、唇が触れかけた刹那――
ヨルの指が、そっとレオの唇を押し止めた。
優しく触れたのは、彼に拘束されていない左手の人差し指。
「だめだよ、ちゃんと言わないと」
甘く優しい声で目の前に迫る彼を静止させた。
「手を繋ぐのも、頬に触れるのも、キスするのも。"したい"ならちゃんときみの言葉で伝えて」
それは揶揄いや悪戯ではなく、彼女自身がレオに求める要望に近いもの。もっと言葉にして、何を求めているのか教えて欲しい、そんな声音だった。
ゆっくりと目を細めるとそっと唇から離れ、彼の言葉を待つヨル。
まるで、胸の奥を見透かされたように、レオは少し目を伏せた。
それから静かに息を吸うと、ヨルの指をそっと自分の手で包む。力ではなく、熱を通して伝えるように。
「……手を、繋ぎたい」
視線を逸らさずに、低く、真っ直ぐに。
「頬に触れて、……おまえの熱を感じたい」
その言葉の途中、指先がヨルの頬に届き、そっと撫でる。
「キスも、それ以上も……したい。おまえの全部が欲しいと思ってる」
その声は決して激情的ではなく、どこまでも穏やかで誠実だった。
けれどその瞳には、まぎれもなく執着とも言える強さが宿っていた。
「これで、……足りるか?」
ほんの少し意地を含ませた問い。
だがその声音は、どこまでも優しかった。
不器用な彼の真っ直ぐな言葉。それを聞けたことが心底嬉しそうな瞳で、彼女はレオに優しく微笑みかけた。
そして、そっと彼の首の後ろへと片手を回すと自分の方へと引き込む。唇を通り過ぎて彼の耳元が寄せられ、ヨルは短く息を吸い込んだ。
「...ねえ、ちゅう、...して」
心臓が鼓膜の裏で鳴っているように煩い。
首筋をくすぐるようなヨルの吐息に、身体の奥がじわりと熱を帯びていく。普段の彼女からは聞けない口調で、悪戯に甘く求められるキス。
ほんの一瞬、視線を伏せたレオは、ヨルの腰へ手を回しながら、低く、かすれるような声で応える。
「……それはずるいな」
もう逃げ道はなかった。
求められたのなら、応えるだけだ。
レオはゆっくりと顔を上げ、今度こそ彼女の唇を奪うように、けれど丁寧に重ねた。
触れるだけの浅いキスではない。
互いの熱を確かめるように、じっくりと時間をかけて。
手を繋ぎ、頬に触れ、キスをして──
彼の口づけには、先ほどの言葉以上に強い「欲しい」が滲んでいた。