服毒
40.『後輩』
じりじりと照りつける夏の日差し。舗装されたアスファルトが陽炎を揺らし、空気まで熱を帯びている。
そんな中、警察署の正面入り口から少し離れた位置──立ち入りの少ない木陰の下に、ひとりの女性が静かに佇んでいた。
白いブラウスに、涼やかな素材のロングスカート。日差しを避けるためか、日傘ではなく、手には小ぶりな扇子が握られている。頬に汗一滴すら浮かべぬその姿は、この猛暑の中でもどこか涼しげで、ただそこにいるだけで絵になるような、不思議な存在感を放っていた。
そんな彼女のそばに、署の中から若い男性の警察官が現れる。柔らかく整えられた髪と、少し日焼けした肌。制服の袖を少しまくり、片手にはペットボトルの水。
「あの……すみません、誰かお待ちだったりします?」
彼は礼儀正しく、けれど気取らない調子で声をかけてくる。
初対面。面識はない──だが、ヨルにとっては想定外でもなく。静かに視線だけを彼に向けた。
「...はい、お気になさらず」
見るからに新しい制服に希望に輝く瞳。目の前の彼のためにも会話を交わすのは控えた方がいいだろう。そう思ったヨルは端的に、だが丁重に気遣いを断った。
「いや、でも……今日暑いっすよ。こんなとこで立ってたら倒れちゃいますって」
後輩は気さくな笑みを浮かべながら、ぐいとペットボトルの水をこちらに向けて差し出してくる。
日差しに焼かれたアスファルトからの照り返しの中でも、彼はまるで気にした様子もなく、真っ直ぐヨルを見ていた。
「もし良かったら、中の待合スペース使ってください。涼しいし、水もあるし。……お迎えはご家族っすか……?」
そんな善意からの言葉だった。
だがその直後──
「……先輩の恋人に手を出すとは良い身分だな」
背後から低く、落ち着いているが明らかに殺気を孕んだ声が響いた。
空気が凍りつくような感覚に、彼の顔がピクリと固まる。
「……レ、レオさん……!? 」
そんな彼の反応に、やはり後輩くんだったかと少し微笑ましくなる。年度が変わり、新しく迎えた新人の話をレオから時々聞いていたから。
「レオがお世話になっています」
丁寧に頭を下げると、黒いオーラを放つレオに笑いかける。
「……じゃあ、噂の彼女さんって……」
後輩は驚きに目を見開いたまま、額にうっすら汗をにじませながらレオとヨルを交互に見た。
状況を察して青ざめたように口を開きかけたその時──
「遺言はそれでいいのか?」
冷ややかに低く、どこまでも真顔で放たれたレオの一言。
声は静かでも、明らかに冗談とは思えない威圧感に後輩の背筋がピンと伸びる。
「ち、ちがうんす! ほんとに! あんまり綺麗だったから……じゃなくて! 暑いし、中の方がいいかと、えっとその……」
焦って言葉をこねくり回す後輩。目はどこか泳いでいる。
レオは黙ってその様子を見下ろしていたが、返す言葉はなかった。
ただ、その瞳だけが容赦なく鋭かった。
「レオ、後輩を虐めちゃダメ」
酷く滑稽な状況にほんの少し笑い声を漏らすと、そっとレオに腕を絡める。そして宥めるように袖を引いて彼の視線を自分に向けた。
「彼は気遣って声をかけてくれただけ、何もされてないよ」
レオは一瞬だけヨルに目を向ける。
その細めた瞳はまだ完全には警戒を解いていなかったが──彼女の声に、表情の硬さがゆるやかにほぐれていく。
「……そうか」
短く呟くと、腕に絡むヨルの手に自分の手を添える。
そして、やっと後輩に目を戻す。だが今度は、わずかに溜息まじりだった。
「次からは、相手を確認してから声をかけろ。軽率な言動ばかりだと殺されるぞ。俺に」
そんな彼の言葉に完全に小動物のように縮こまる後輩。
「……っす……はい……すみませんでした……!」
敬礼すら何だかぎこちない。
レオはもうそれ以上追及せず、ヨルの腕を取ったまま、その場を後にしようとした。
「あ、少し待って。」
歩き出すレオの腕を引き留め、頭を下げている彼に塩分タブレットを手渡す。正直な所、彼がどうなろうと興味はないが、レオが顔を綻ばせながら後輩の話をするのを見るのは好きだから。
「レオのこと、嫌いにならないでね」
後輩は目をぱちくりと瞬かせ、塩分タブレットを手のひらで受け止めた。少し気まずそうに笑いながらも、ヨルの気遣いに気づき、何度も小さく頷いた。
「ありがとうございますっ……!ぜ、ぜんぜん嫌いじゃないっす……ていうか、めっちゃ憧れてますし……!」
その様子を横目に見ながら、レオはヨルの腕を引き寄せる。
そして小さく、だが確かに耳元で囁く。
「……甘すぎるぞ、おまえ」
言葉に滲むのは、呆れと、僅かな嫉妬と、誤魔化せないほどの好意。
指先に少しだけ力を込めて、ヨルを引き寄せたまま、署の陰へと歩みを進めていく。
「初めての直属の後輩くん、だったよね」
正義感たっぷり、やる気たっぷり、子犬のように付き纏い、物覚えは少し悪いがレオを追って頑張っている。言われてみれば、レオにそう聞いていた通りの青年だった。
「なら大切にしてあげないと」
少し嫉妬を煽るような笑みで彼を見上げる。
レオは一瞬目を細め、ヨルのその笑みにわずかに顔をしかめた。
「……あいつに気があるみたいな言い方するな」
低く落ち着いた声に、嫉妬を隠しきれない響きが混ざる。なのにその言葉の後、彼はヨルの頭にぽんと手を乗せた。
「……大切にするのはおまえだけでいい」
言葉の温度に、照れも意地も混ざりながら。
そう言い切った自分の声に、レオ自身が少しだけ赤くなる。
「私もそうだよ」
瞼を少し落とし、嬉しそうな表情を浮かべるヨル。
「でもきみが嬉しそうに彼のこと話してるの、好きだから」
レオはその言葉に、ぐっと喉の奥で息を止めたように黙る。
「……そうか」
口数は少ないまま、それでも視線はやわらかく、指先がそっとヨルの頬を撫でる。
「だったら……あいつがちゃんと誇れる先輩でいなきゃな」
照れ隠しのように目を逸らしながらも、どこか誇らしげに笑うその顔には、誰かの成長を願う優しさがにじんでいた。
優しいその表情の先には自分以外の存在が居るはずなのに、不思議と不愉快にはならない。それはきっと、後輩の存在がレオ自身が積み重ねてきた努力の成果でもあるから。
それでも、彼が自分のものであるという独占欲は僅かに残っている。
「ねえ、レオ」
周りに人がいない事を充分に確認すると、ヨルは静かに彼の名前を呼んだ。
レオはその声にふと立ち止まり、優しいまなざしのままヨルへと目を向けた。
「……どうした?」
短く問い返すその声と同時に、ヨルは不意をつくようにレオへと口付ける。その口の中には後輩に渡した物と同じ塩分タブレットがあった。
一瞬、レオの瞳がわずかに見開かれる。
戸惑いにも似た静かな驚きがその目に宿るが、拒む気配はない。ただ、触れ合う唇の奥で、ほんのりとした柑橘のような味が広がったのを感じる。
唇が離れた時、ヨルの顔はいたずらを企む猫のように、どこか無邪気な笑みを浮かべていた。
「……きみの分もちゃんと持ってきたよ」
そう言って小さく肩をすくめるヨルに、レオは呆れたように息を吐く。
「おまえは…ふざけてるのか、真剣なのか、」
だが、そう言いながらもその声はどこか甘く、彼の視線には怒りも苛立ちもなかった。むしろ、照れ隠しのように、彼女の額に自分の額をコツンとぶつける。
「……他の男の前でやるな、絶対に」
木々の葉を抜ける夏の風が、二人のあいだをさらりと吹き抜ける。
「レオも私以外から受け取ったらダメだよ」
そう言ってほんの少し残った柑橘の香りと、彼の甘さに頬を緩めた。
レオはその言葉にわずかに目を細める。
彼女の甘えとも釘刺しとも取れる一言。だがその口元には、ほとんど意識せずに笑みが浮かぶ。無骨な顔にしては珍しく、静かで穏やかな笑み。
「……分かってる。おまえ以外から貰う気はない」
ぽつりと、けれど確かに。言葉のひとつひとつに真実を込めるように呟く。
そして、ゆるく繋がった腕にもう一度力を込めて引き寄せると、通りを見張るように立つ門番のような同僚たちの視線を気にするでもなく、そっとヨルの髪を撫でる。
「おまえがいてくれるなら、それで十分だ」
照れもせず、いつも通り不器用なまま。でもその言葉が、ヨルにだけ向けられた本物のものだということは、夏の熱気の中でも、確かに感じられた。
───
署の休憩室、冷房の効いた空間にアイスの棒をくわえた署員たちの声が響いていた。
「で? どうだったんだ、“噂の彼女”は」
缶コーヒーを手にした年配の巡査が、後輩を肘でつつく。すぐ隣では別の署員が「五体満足で生きてて良かったな」と笑っていた。
「ほんと、無事だっただけでも奇跡っすよね……!」
後輩くんが今にも泣きそうな顔で振り返ると、向かいの先輩が思わず噴き出す。
「俺、まさかレオさんの恋人って知らなくて……いや、すっげえ綺麗な人だったからてっきり誰かの家族かと……」
後輩の額からは冷房の下でも止まらない汗が一筋。
「おまえな、“声かけた”ってだけで普通なら、うちの鬼警部補に退職届書かされてるレベルだぞ?」
「マジで、“無傷”で戻って来れて良かったな。伝説の新人だわ、おまえ」
「でもさぁ……実物どうだった? レオさんにほんとにそんな彼女が……?」
その質問に、後輩は一瞬だけ虚空を見上げると、ぽつりと言った。
「……なんか、ただ綺麗とか優しそうとか、そういうのと違って……こう、“絶対にあの人に触れちゃいけない”って感じの人でした……」
一瞬、室内が静まりかけるが、すぐに年配の巡査が笑いを漏らす。
「おいおい、詩人か。惚れるなよ、命が惜しけりゃな」
「絶対に無理っす!!!二度と近寄りませんよ!!!」
ソファに突っ伏す後輩くん。その肩を同情と笑いが入り混じった手がぽんぽんと叩いた。
「ま、よくやったよ。ある意味で一番“近づいた”んじゃねえか?」
「いや……全然嬉しくないっす……ほんとすみませんでしたレオ先輩……」
それでも、彼の手の中にはヨルがくれた塩分タブレットの包みが残っていた。
「あのレオ先輩が“殺す”だけで済ませたんなら、お前結構可愛がられてるってことだな」
あわてて両手を振る後輩くん。その姿に、署員たちの笑いが響いた。
「でも、あの目は本物だったな……レオさんの“全部”があの人に向いてんの、分かる気がしました」
その言葉には、からかうような声は重ならなかった。
どこかで蝉が鳴いていた。外は真夏の空の下、騒がしくもどこか穏やかな昼下がり。
彼らの警察署にもまた、少しずつ「新しい夏」が根を張っているようだった。