服毒
38.『同罪』
休日の夕暮れ。
窓の向こうには橙色の光が差し込んでいる。柔らかく染まった部屋の中、静寂を割るのは壁掛け時計の針の音と、誰かの寝息だけ。
レオはソファの上で微かに眉を寄せ、目を開けた。少しぼやけた視界の中、最初に入ってきたのは自分の視線のすぐ先にある黒い髪。その髪が、まるで猫のように胸の上に丸く収まる輪郭を形作っていた。
「……ヨル?」
かすれた声と共に、レオはゆっくり身を起こそうとする——そのとき、カチャリと金属の音が鳴った。
腕を動かそうとしても、手首が何かに阻まれている。視線を落とせば、自分の手首には見慣れない銀の輪。いや、見慣れた——あの時のものだった。
「……っ」
思わず吐いた息は混乱を隠せない。首筋にも違和感。指で触れると、そこにもまた——冷たい金属。
そして何より、自分の上で気持ちよさそうに寝息を立てる女性の存在が、じわじわと現実味を帯びてくる。
手錠、首輪、そしてヨル。
その全てが揃った今、ただのうたた寝のはずが、不穏な空気に変わっていく。
「……ヨル、起きろ。おまえ……何を」
手錠の鎖が、再び鈍く鳴った。
「おはよう、レオ」
レオの声にぼんやりと目を開けるヨル。何度か瞬きをして、小さな欠伸をひとつ。まるでなんでもないかのように彼の胸に手をついて身体を起こした。
「...長いお昼寝だったね」
その声色にはなんの悪気もない。
「……ふざけてるのか、ヨル」
レオは低く呟いた。
怒気を孕んでいるわけではない。だが、その声には明らかに警戒と戸惑いが滲んでいる。
手首を軽く動かし、カチャ、とまた金属音が鳴った。彼の眼差しが、ヨルの顔から首輪、そして自身の拘束された両手へと移っていく。
「これ、何のつもりだ」
ヨルを見上げる瞳には、じわじわと火が灯る。
いつもなら理性で押さえ込まれる感情が、鈍く、しかし確実に熱を持ち始めていた。
「仕返しか?」
その声色は、少しずつ本気を帯びていく。
けれどヨルの表情はどこか楽しげだった。
「仕返しじゃないよ。羨ましかったから真似しただけ」
そう言いながら彼女は首輪に手をかけて優しく撫でる。その目に映るのは支配などではなく、ただただ重たい愛情。
「私もレオのこと捕まえてみたくて」
そう言って顔を寄せると額に優しくキスを落とす。レオは微かに目を細めた。額に落ちたキスの温もりは確かに優しい。
けれど、その裏にあるヨルの感情が、甘さだけではないことも――レオにはわかっていた。
「……そうか」
くぐもった声で呟くと、彼はゆっくりと上体を起こそうとした。
けれど両手は手錠に阻まれ思うようにはいかず、わずかに身体を引き寄せただけで限界だった。
「本当におまえは……」
その言葉には呆れや嫌悪ではなく、どこか安堵すら混ざっていた。
レオはヨルの頬に自分の額をそっと押し当てる。そして囁くように続けた。
「これだけで満足なのか?」
声は低く、熱を孕みながらも静かに沈んでいた。ヨルが挑発すればするほど、レオの中の何かが深く、確実に目を覚まそうとしていた。
「もう少し楽しみたいな。折角だから」
そう言うと、腹から首元まで手のひらでゆっくりと撫で上げる。服越しでもわかるほどに上がる心拍数。
レオは喉奥で短く笑った。
その手の動きに、身体が無意識に反応しているのが自分でもわかる。けれど、何よりも煽られるのは――その目だ。
何もかも見透かしているような視線。支配しているつもりで、レオに支配されたいという欲望が滲む瞳。
「……楽しみたいなら、最後まで付き合えよ」
そう低く呟いたかと思えば、ヨルの手首を拘束された両手でぐっと引き寄せた。
わずかにバランスを崩したヨルの身体に合わせて、自らもソファの背に深く寄りかかるように倒れ込む。結果、手錠のまま、胸元に彼女を抱き込むような体勢へ。
「首輪も手錠も。……これ、俺のものだろ」
耳元で囁くように言うと、レオはその細い肩に鼻先を押し当てる。
そこにはまだ、かすかに昼寝の間に抱きしめていた時の温もりが残っていた。
「そうだよ、きみのもの」
心臓に近い位置で満足げに笑うヨル。彼の緩い拘束の間から腕を伸ばすと、自分がされたように首輪の金具に指をかけ引き寄せる。
「だから、レオにも似合ってる」
甘く囁くような声。
それは唇に触れるぎりぎりで、悪戯に笑いながらレオへと届けられた。
「……そう言われても悪い気はしないな」
そう呟いた声は、冗談の響きをほとんど含んでいなかった。
指先ひとつ、表情ひとつで心をかき乱される――そんな自分に気づきながら、レオは無意識に奥歯を噛みしめる。
けれどヨルの笑みを見た瞬間、その抑えていたものに決定的な火が点いた。
「ヨルになら、」
低く、熱を帯びた声。
そのまま手錠の制約も構わず、体を捻ってヨルをソファに押し倒す。
乱れたバランスにクッションが沈み、彼女の髪がふわりと広がる。
「似合っているんだろ、ヨル」
見下ろす位置に立ったレオの瞳は、まさにヨルが望む通りの色に変わっていた。
「好きだよ、レオ」
体術に明るい彼に勝てるわけもない。
彼女にとって今の状況は想定内だったのか、形勢は見事に逆転したがどこか嬉しそうな姿があった。
「...でも、おイタはだめ」
彼女はそう言うと、静かに腕を伸ばし彼の皮膚と首輪の間に指を入れ遠慮なく強く引いた。レオの眉が僅かに動く。喉元を絞めるような刺激に息が詰まりかけ、肩が一瞬、ビクリと震えた。
「……ヨル」
それは痛みではない。
むしろ、その理性を揺さぶるには十分すぎるほどの挑発だった。
首輪を引かれたことで、より近づいた距離。
レオは息を整えるように深くひとつ呼吸すると、彼女の耳元に口を寄せる。
「十分に楽しめたか?」
低く、熱い声が囁かれ、ヨルの耳朶を微かに震わせた。そしてそのまま、彼女の手首にかかった手錠の鎖に自身の手を絡め、レオは彼女の腕ごと頭上に押さえつける。
「俺を捕まえるなんて言ったのに、説得力がないな」
そう言いながらも、その眼差しはどこまでも真っ直ぐ、冷たく、そしてただ一人を見つめている。抑えていた欲求が、徐々に理性を侵食し始めていた。
「そうかもね」
そう言った彼女の口元には笑みが浮かんでいる。カチャリと鳴る金属音や押さえられた自分の腕、そして見下ろす彼の瞳。それら全てに満足そうにしていた。
「ねえ、レオ」
その声は優しく、少し目を伏せ呼びかける。
レオはその声にほんの一瞬、動きを止めた。伏せた睫毛の奥に潜む感情を、真剣に見極めようとするかのように、彼はじっとヨルを見つめる。
「……なんだ」
手首を押さえる力は変えずに、だけど声にはどこか緊張のようなものが滲んでいた。
彼女の悪戯の先にある“本音”に触れようとしているような、そんな鋭さが宿っていた。
けれどその瞳の奥底――
理性の下に押し込めてきた“欲”は、すでに静かに牙を剥き始めていた。ヨルが呼吸一つ、言葉一つを間違えば、今にも堰を切って彼女を呑み込んでしまいそうな、そんな予兆と共に。
「...きみが"欲"を露わにする時、自分がどんな眼をしてるか知ってる?」
身体の自由を奪われても、彼女の表情は崩れない。むしろ嬉しそうにもっと求めるかのように微笑んでいる。
「――私と同じ眼になるの。」
レオの瞳が、かすかに揺れた。
その言葉に何かを撃ち抜かれたように、思考の底で眠っていた感情がざわりと目を覚ます。
彼女の言葉が正しいと、どこかで分かっていた。
理性を失いそうになるほどに、彼女が欲しいと思う瞬間の自分――
その眼が、どんなものかなんて見えないまま、けれど確かに“同じ”だと気づいてしまった。
「いつもの優しい温かさが消えて、どこまでも貪欲に私だけを求める冷たい眼...」
彼の手を受け入れながら、その瞳はレオだけを見つめる。彼の奥底に眠る秘密を引き摺り出すように、そっと手招く視線。
「レオも私と同じように堕ちてくれてるって、感じるんだ」
レオはほんの一瞬、まぶたを閉じた。
彼女の言葉が、胸の奥で静かに何かを焼く。
彼女の瞳に映る自分が“同じだ”と言われたことが、嬉しいとすら思えてしまうことが、もう限界だという証拠だった。
「……嬉しいか」
低く、感情を噛み殺すように呟く。
けれどその声音には、怒りも戸惑いもない。ただひたすらに、目の前の彼女を欲し、支配し、独占しようとする眼。
拘束されたままの手で彼女の肩を強く抱き寄せると、手錠の鎖がわずかに鳴った。
「……ヨルの甘い毒が、俺を堕としているんだ」
そう言ったその声は、いつもの穏やかさも冷静さもない。
ヨルの言葉に抗えず、追い詰められた獣のように――レオは、彼女の唇を奪った。
一切の躊躇もなく、求めるままに。
甘い支配も、焦らす戯れもない。ただ真っ直ぐな、衝動。それさえも彼女が望んだ結末のようだった。
ヨルはそれを受け入れ、静かに口角を上げる。
お互いの毒を舐め合って、戻れないところまで中毒になればいい。それが私たちにとっての"愛"だから。